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FULL HEART SESSIONS

11月15日、朝7時。
ぴったりにタイムカードを押して、掃除用具の入っている扉を開ける。
床の隅々まで掃除機をかける。今年に入ってもう3台目、ダイソンの掃除機が壊れるなんて、きっとそうそうないのだろうが、もうこれも吸引力が落ちてきた。
次はワイパーを取り、反発力の高いマットを拭く。足がズブズブ沈む。靴下越しに、冷ややかな感触が伝わる。
入り口に戻り、レジの電源を入れ、ここだけ暗い、ブラウンのブラインドをゆっくり上げて、陽射しを取り込む。重いガラス戸の、鍵を回す。
この店が終わるまで、あと半月、これが俺の仕事の始まり。

フロアに戻り、洗面台の横に出来たデッドスペースのコンテナを下ろし、インパクトドライバーと菓子箱に入ったビスを傍らに出し、コンテナの中を確かめる。青、紫、赤、マーブル、蛍光色、マットブラック、グレー。
フロアの壁を一望し、真ん中に立つ。全面真っ白の壁が四方に取り囲む。真ん中に立つと、その壁が生きている様に感じるし、実際生きているのだ。何がどこにあるのかなんて、分からない。蠢き、主張するそのカラフルな出っ張り達に囲まれる度、一人でここに居るはずなのに、そうではないような気持ちにさせてくれる。

挑戦。
それが出来ているかは、本人にしか分からない。俺にだってわからない。ここはそういう場所だけど、そうではない思念だって確かにある。
広まるっていうのは、その裾野を広げることで、挑戦する事の意味が一回切りの"やってみた"まで広がってしまう。沢山の人は、やってみたで終わる。だけど、選ばれた人間は皆、敗者である所からスタートする。
開店から1時間後、きっかりにやってくる彼女がその一人だ。

彼女はフューリア。嘘みたいなあだ名だ。いや本人がそう言ったわけじゃない。彼女の靴の名前。いくら専用とはいえ、靴の一つ一つに名前が付いているのが、クライミングの変なところ、そして大体、みんなお気に入りの一足には思い入れを込めている。
彼女はフューリア、絶対に喜ばないし、笑わない。ずーっとしかめ面で、眼は鋭く、壁を睨む。俺は彼女が着替えを終わる前に、フロアの休憩スペースに、サービスのレッドブルを置いておく。彼女は俺の作った課題に向き合っているただ一人の人だ。

この店が閉店するとき、全ての岩は外される。その先のことは聞いていないが、俺が作ったこの課題の寿命はあと半月、彼女の実力からすれば、少し上。初めはスタートの大きく抉れた岩から、薄い岩の一円玉の側面程度のとっかかりを取って、両手で持ち替える、それだけですぐに尻もちをついていたのに、少しずつ、少しずつ手を進めている。早朝、誰もいないこの店で、たった一人の彼女の戦いは、少しずつ進んでいる。

ヨガマットを広げ、足を大きく広げ、ストレッチ、ゆっくりと息を吐き関節を緩め、掌を上に向け、もう片方の手で指を逆方向へ伸ばす。女性にはおよそ似つかわしくない真黒で無骨な靴につま先を押し込む、踵を引き上げる。その時少し、顔が引きつる。痛いんだ。それこそが本気でやっているという証拠で、彼女はその痛みをこらえ、手首をテーピングで縛り上げる。それだって痛い。チョークバッグから粉を手に振るい、顔を叩く、あーあ、せっかくメイクしてきたろうに、台無しだ。でもそんなこと、彼女はお構いなしだ。

クライミングを始めて、続けていくうちに、その世界に完全に入ってしまう人は多い。俺だって絶対にそうだ。やる理由がなくなることは絶対にない。超えるべき自分の目標がなくなるなんてことは絶対にない。だけど俺は、この店がなくなった後、その目標に一滴の疑いを持った。どこにだって、皆が求める目標がある。それが、本当に俺の超えるべき目標なのか?本当に俺たちはまともに人間をやっているのか?お客さんはほとんど、社会人で、きっと組織に属して必死で働いて、少しの時間を捻出している。俺は豪勢で、いつだって登れるし、自分で課題を作ることだって、出来る。その気になれば、外にあるでっかい岩だってやれる。そんな環境で、本気になっていない俺は一体なんだ?逆境じゃない俺は一体なんだ。

彼女の課題は、もちろん俺も出来る。そのルートを辿る時、そういったドロドロした思いは消えた。消したかった。徹底的な壁が欲しい。だから最後、ゴールする為に絶対に必要な要素を入れた。左手の薄い岩とつるつるしたかまぼこ型の岩を遠くに配置し、45度に傾斜した壁を抱きかかえるような姿勢から、右足のドアノブ一本で、最後ののっぺりとした岩に飛びつく。それだって全然引っかからない。必要なのは。声だ。

彼女はスタートの大きく溝がへこんだ岩に両手を添え、マットから腰を浮かす。一手目、薄い灰色した平べったい岩の3ミリぐらいの溝に左手を添える。いや、指先と爪の肉を押し込む、そのまま足だけを動かし、同じ岩の壁との接地面に指を這わせ、持ち替える。二手目、余った左手を壁の端、直角に切れている部分に伸ばし、ちょうどその位置についた薄っぺらい勾玉のような岩を4本の指で、親指を壁につけて挟み込む。低空飛行だが、傾斜がついている上に、足場は悪い。三手目、ここから一気に悪くなる。今までより少し大きいが、ドアノブをそのまま壁に埋め込んだ形のような岩を、文字通りつまむ。両方の手の位置は開き切って、ここから先、この状態で上まで上がることを強いる。四手目、姿勢はそのまま、左手だけを少し上の勾玉に移す。その時少しだけ、足場を高くする。そして、ここは見せ場。ドアノブをつまみながら、つまんでいる岩の少しえぐれた部分、ドアノブの回る部分に、踵をねじ込む。身体全体を傾斜している壁に近づけ、半分以上体が浮いたところで、反動をつけて、かまぼこ型の紫色の岩を掌すべての摩擦で止める。慎重に重心を踵からつま先に持っていく、手はそのまま、重心だけを僅かに下げる。余った左足を宙に浮かし、左右に反動をつける。長すぎても短すぎてもいけない。彼女がここまで行けたことは、今までにない。短く荒い呼吸が続く、身体は冷えているのに、額に汗が伝う。

「跳べ!!」

俺は大声で叫んだ。いつ以来だったろう。人の応援にこんなに大きな声を出したのは。彼女は一瞬、視線だけこちらに移した。笑っているような気がした。次の瞬間、彼女は身体全体を大きく振り、跳び出した。右手が最後の岩の凹みを捉えた。身体が左右に大きく振られる。それを右腕一本で支えることは出来ない。最後の鍵は、一つ。
笑わない彼女が、喜ばない彼女が、声にならない声を絞り上げた。滞った空気が、弾け飛ぶ、全ての物がガタガタ震える。これは、彼女を振り飛ばす、断末魔か。

「行けぇ!掴め!」

大きく右に振られ、反動で戻るその瞬間、大きく弧を描く左手、その掌で、岩を、強く、思いっきり、ぶっ叩く、乾いた打撃音が壁を伝い、フロアがぐわんと唸る。

彼女は姿勢を正し、反動を両手で抑え切って静止し、マットの上に飛び降りて、そのまま仰向けに寝転んだ、呼吸は荒く、まだ鼓動は収まらない。
俺は彼女の元にかけ寄り、隣に腰を下ろした。できた。彼女は壁を見上げながら、溢した。

「最後の一手、掴んで思いっきり叫んだら、もうどうでもいいや、って、今、死んでもいいや、ってそう思った」

「どうでも良くなんか、ないんですよ。だからこの課題は最後、全力で叩くんだ、あの声は、壁を、ブチ破る為の、声だから」

俺は右の拳を彼女に突き出した。彼女も、拳をゆっくりあげて、合わせる。

「ありがとう」

午前8時30分、彼女はフューリア、今日、彼女は、俺は、今日を越えた。たった二人の戦いで、自分を越えた。俺は、彼女は明日も、明後日も何かを乗り越えなければならないかもしれない。どうでもいい事なんて、何もない。どうでもいいのは、俺以外、彼女以外、そのすべて、それをすべて超えて、戦って、走って、ぶっ飛んで、全力で叩く。その瞬間の電撃と爆炎だけが、俺と、彼女の、全てだ。

だから今日までの自分はこれで、さよなら。
そして彼女も、これでさよなら。

サポートはお任せ致します。とりあえず時々吠えているので、石でも積んでくれたら良い。