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イベント記録 やたいだん かとちゃん編(1/3)愛されたい気持ちはどこからくるのか?

この記事はモテアマス三軒茶屋で2023年3月3日に行われたオンライン対談の記録になります。


かとちゃん
 まずはこのイベントの説明をお願いします。

かずひろ
 「愛するとは何かということを考えましょう。参加者の方を愛させてください」と言うコンセプトで始まったやたいだんという名前のイベントでゲストの方と「愛するとは何か」をお話しする、非常に哲学的な会なんです。
 別のイベントに行ってこのイベントの宣伝をして人を呼んだり、 SNS上 でこんなイベントをやります来てください。とたくさん流したりと広報や宣伝は結構やりました。

 それでこの対談はどういう対談なのでしょうか?イントロダクションをちゃんとやらないと普通にもったいないですよ。

かずひろ
 イベントする時に何か出し物があった方がいいなと思って対談企画を作ろうと思ったのです。ちょうどその時にこのイベントの準備と同時並行で、新しい出版企画として世界がもうちょっとマシになる生き方ガイドを作っていて、そのガイド本を作る関係者グループの中で「今度始めるイベントの中で愛とは何かをテーマにした対談をします。一緒にやりたい人誰かいませんか。」という告知を出してキノこさんとこれから対談するかとちゃんが反応してくれて一回のイベントで2回会談することになったんです。

かとちゃん
その前に愛って何ですか?

かずひろ
 難しい質問ですね。なんだろうこの人のためだったら犠牲になってもいいかなという気持ちかな?

かとちゃん
それだと自己犠牲にならない?

かずひろ
 自己犠牲だったら相手がいなくてもできる。自己犠牲というよりも相手を疑わないみたいな感じかな?あんまり自分の言葉にはなりにくいな。
 私自身には盲目的に愛するという気持ちがあまりなくなってしまっていて、いいなと思うときあるけれど、いいなと思う自分がその愛する対象に向かって手を伸ばすかっていうと、そこにはなかなかいかない感じになってしまってます。

かとちゃん
それは異性愛の話ですか?

かずひろ
 異性愛の話ですよ。相手を愛しすぎて自分がなくなっちゃうと愛している自分がダメになって終わっちゃうというのもあるんで、両方が幸せになるために生きるのがいいかなっていう感じかな?自分もその人も幸せにするところで、そこのバランスが取れるとよいのかな?どうなんだろう?

 やっぱり自分から思っているただの好きという気持ちだけだと最終的には他人として大事にします、という気持ちになって終わっちゃうかな?
 好きという気持ちから愛までいくとその人のために一肌脱ごうとか、一緒の人生の目標の場所に行きたいみたいなその人とともに人生を並んで歩きたいみたいな感じが愛なのかなー

 愛って理屈ではないのかなって思っていてどうしたってその人のことを思っちゃうみたいな理性を超えたところにある。そこに自分が入ってくるとエゴになってしまうし愛の定義はエゴと言う人もいるのですけれど、そこを突き詰めた所にガチで純度の高い愛があると私は定義したいです。
 やっぱり人って自分の事が大事なんです。その大事な自分を度外視してもその人のために何かしたい気持ちが純度の高い愛なんじゃないかなと私は定義したいから、さっき言っていた誰かと一緒に歩きたいが愛だとしたらそう提言していいと私は思ってます。

かとちゃん
 質問してくれないのかずひろがファシリテートできてない、対談になってない

かずひろ
 愛とは何かって質問だと受け止めが難しくて応えるのに必死になってしまって、返しの質問を考える余裕がないのです。
かとちゃんは愛をどんな風なイメージで思っていますか?

かとちゃん
捧げるものだと思っています。勝手にやります。やりたいからやる、以上。

かずひろ
 それは自分が大事ってことですか

かとちゃん
 相手と自分の境界を設けないってことですね。主観でしかないからね世界なんて、自分から見て相手にとって一番いい事をしようとする自分がいることをちゃんと意識しないと、やることが相手のせいになっちゃうから無責任にもなりかねないと今言おうとしてたとこ。  「お前がそう思ってるだけだろ」って思います。「やってあげてる」っていうのが押しつけがましいからただただ置いてくるだけでいいのかなって。

 親の愛とか押しつけがましいところがありますよね?

かずひろ
 その子供を育てる時なんか、親が子供をこういうふうに大きくなれとか良かれと思って育てていたけど子供が突然壊れたとか爆発したとか、不良にになるとかも壊れ方のひとつだと思っていて、子供も小さい時は親に従わなきゃいけないから一生懸命いい子を演じるけど人間だから限界がある。学校でいい子を演じて家でいい子演じてとずっとやっていくと我慢の限界がきて壊れちゃったりとか、アイドルみたいな愛される事を目的とした職業を自分で選んで自分の意思でキャラクターを演じていてもやっぱり疲れる時は疲れる。芸能人がキャラクターを演じるのは職業倫理だから仕事やめるとなれば守らなくてもいいけど、子供の場合だと親の期待に応えようとしすぎて疲れてしまって倒れちゃうとか結構あんのかな。

 愛するっていうのはかとちゃんの言う通り対象を愛すればいいと思うしなんなら対象が人とかじゃなくて鍋敷き(たまたま目の前にあった)のマニアでこれ愛してるんだとか細いニッチな人がいてもいいと思う。おもしろいって勝手に思っているいろんなものに対して愛の感情を持っていてもいいと思ってます。
 愛するよりも愛されるって言うのがすごく大変なのかなって思っていて、どうやったら愛されるか考えなきゃいけないし、考えている時に「このキャラクターずっと演じていていいのかな?」って迷ってしまうこともよくあります。

かとちゃん
 なぜかずひろさんは愛されたいのですか?

かずひろ
 どうして愛されたいのか?って聞かれることもよくあります、現在受講しているグットニート養成講座のコンセプトが「愛される人を目指しましょう」だからという理由もあるのですが、「愛されたい」という気持ちを考えていると人間の根源的欲求の中に愛されたい気持ちがあるのかなって思っていて、もし原始時代に人間一人ひとりが「孤立しててもいいな。一人で生きていけばいい。」って考えだと種族として弱いみたいな感じで考えていて「愛されたい。みんなとつながりたい。」っていう欲求を持っている種族の方がお互いに繋がりがあって食べ物も分け合ったりできるから種族全体で強い。やったりとったりしていればそんなに死ににくい、みたいな気持ちが根源的欲求として現代人にも残っていてそれを分かりやすく言うと「愛されたい」になるのかな。
 人間の三大欲求といえば食欲、性欲、睡眠欲と言われていますが、そことは別次元の欲求で「愛されたい欲」があるのかな?
 子孫残せばいいっていうだけなら性欲で説明がつくけど、コミュニティの中である程度大事にされて生きたい欲求で「愛されたい欲」が出てくるんじゃないかな。人間が人間に向ける欲が性欲だけだったら子孫残せばそれでいいやみたいな感じになると思うんです。

 かずひろさんは愛されたことないんですか?

かずひろ
 あることはあるんです。愛されてはいるんですけれどもうまくいかない人として愛されることが多くて、ダメ人間として愛されても仕方ないと思っています。その人たちと一緒にいてメリットがあるかと言うとそれもない。
 やっぱり「愛する」気持ちはエゴではない純粋なものだけど、「愛されたい」気持ちはエゴに近いのかな。
 愛されておけばとりあえず死なない。愛されておけばとりあえずコミュニティの中でいいポジションでいられる。とりあえずまあなんとかなるために愛されたいってふしだらな気持ちの方があるかな。愛する方だとその人のためだったら失敗してもいいみたいな純粋な気持ちがあるけど愛されたいっていうところのエゴ的な部分がどうしてもありますねえ。

 こんな企画をやっていて、愛される人を目指すグットニート養成講座を受けていると愛されたい愛されたいって渇望していそうなイメージは持たれるんですけれども愛されるときも結構あります。
 愛してくれる人が僕に持つイメージが本来の自分と違いすぎていて僕が「そのひとの求めている高橋かずひろ」を演技するのに疲れてくると「その愛はちょっと受け止められません。」という対応になってくるのが実情かな。

演技はしてますか?

かずひろ
 対人関係での演技は僕はあまりしない方ですが、周りから求められている自分を自覚して演技してしまう部分もあります。
 初対面と喋る時にこの人やばいと思われないように本気の意見を言わないようにしていたら、控えめに喋っているのが本来の自分と思われて「かずひろの事俺は好きだぜ」って言われて初めは嬉しく思っていても、後で話をしているとその人は「初対面の人用の控え目な高橋かずひろ」が好きだったわけで、その人に愛され続けるためにこの後ずっと演技していていいのかなと思うとやっぱり違う。
 「愛されたい」と言うよりも「自分にメリットをもたらしてくれる人に愛されたい。」って思ってる自分がいるわけでそこはエゴと認めるしかない。

かとちゃん
 「愛されたい」と「愛される」は違うよね


対談会場 モテアマス三軒茶屋
2023年3月3日


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