自#464「終活とかが、今、大流行ですが、それは、終活という名の生のイベントを楽しんでいるだけのことです。死ぬことは、誰も本当の意味では、想定できません」

「たかやん自由ノート464」(クォヴァディス13)

私は自分自身に関して、未来の予測は、ほとんどしません。年寄りですから、老後の不安は、本当はいろいろあるのかもしれませんが、問題が起こったときに、対処すればいいとsimpleに考えています。「心配事の9割は起こらない」という本が、何年か前に評判になりました。中学受験は母親が9割とか、9割の薬は不要だとか、9割が流行していました。が、心配事に関しては、9割以上の9割9分9厘くらいの確率で起こらないと、私は判断しています。
 心配事が起こると考えると、その心配事にエネルギーと時間を使ってしまいます。私は先のことを心配しない人間ですが、ゲーム感覚で、懸念材料をフューチャリングしたりすることもあります。一種の遊び心です。
 2年前の11月、非常勤講師の面接の時
「社会科の科目でしたら、どの教科でも教えられます」と、軽い気持ちで言ってしまいました。私は、年寄りです。年寄りというのは、若者と違って、知恵、知識、判断力は、すぐれているという前提で、日々、生活しています。年寄りだから、どの教科でも、教えられる筈だと、気楽に考えて言ってしまったんです。面接を終えて、電車に乗って帰宅したんですが、ふと「もしかしたら地理は、教えられないかもしれない」と、冷静に考えてしまいました。ケッペンの気候区分だって、aboutな知識しかありません。カリブ海に浮かぶ、ちっちゃな国の名前とか、首都名とか、全然、知りません。アメリカの50州の名称と場所は、だいたい答えられると思いますが、州都の名称と場所は、ほとんど判りません。工業や農業生産物の産出高の国別ランキングとかも、ほぼ知りません。地理に関しては、小学生レベルの知識も、多分、持ってないと思います。
 全科目、教えられると大見得を切りました。採用予定の学校に出向いて
「地理でお願いします」と言われて
「すみません。地理だけは、できません」などと、今さらカッコ悪いことも言えません。三学期の初めに、3年の授業が終了して、例年でしたら、その後は、本を読んだり、映画やアニメを見て、気楽に過ごしていたんですが、まず、地理Aの教科書を読んで、次に地理Bを読破し、地理の資料集にもひととおり目を通しました。その後、各国の地誌の勉強を始めました。ヨーロッパを全部終わらせて、アメリカ、カナダ、メキシコ、中国まで進んだ時に、板橋区の学校から、面接に来て下さいと言われました。まだアジアの大半の国々、アフリカ、中南米、オーストラリアやその他の島など地域の地誌には、まったく手をつけてません。まあそれは、残った春休みと、授業が始まった後、夏休みに仕上げればいいだろうと考えて、採用予定校の校長面接を受けました。校長からは「地理でお願いします」と言われる筈だと、ほぼperfectに思い込んでいました。ですが、校長は「3年生の選択世界史をお願いします」と私に伝えました。正直、「へっ?」って感じでした。「えっ、地理じゃないんですか?」と、喉元まで出かかりました。心配事は、9割9分9厘起こらないと云うことを、まざまざと実体験したということです。
 子供の頃、お寺で、夏休みに地獄絵図を見せていました。私も小2の時、一回だけ見ましたが、悪いことをしたからと言って、地獄に行くかどうかは解らないし、地獄絵図を見て、地獄の予習をすることなど、まったく不要だと思ってました。中2程度の常識があれば、世の中のことはだいたい解ると、この所、私は主張しているわけですが、小2の常識でも、世の中のことは、充分解るんじゃないかと云う気さえします。キリスト教も、罪を犯せば(人間には原罪がありますから、最初から罪を犯しています)煉獄や地獄に行くと、教えます。天国はあっても構いませんし、まああって欲しいんですが、地獄は不要です。これは、小2の常識です。
 期末試験の採点と成績記入を終えて、10日間くらいかけて、まずオデュッセイア(上下)を読み、イリアス(上中下)を読み直しました。西欧の文学作品で、一番、古いのはイリアスです。イリアスと、オデュッセイアのオデュッセイのキャラが、違います。同じ作者の作品ではありません。どちらも、それまで口承されて来たものを、誰かがまとめたものだと推測できます。ギリシア神話のベーシックな部分が、この2つの物語には、描かれています。我々が普通に知っているギリシア神話は、つまり尾ひれの尾ひれのような、ヴァージョン版だと、今回、はっきりと知りました。
 たとえば、パンドラの箱ですと、プロメティウスが、病気や悩み、盗みなどを、わざわざ閉じ込めておいたのに、ゼウスが送り込んだパンドラが、考えもせず開けてしまったので、悪徳がはびこってしまった、でも、希望が箱に残っていて、人間に、勇気と力を与えてくれたみたいな話が一般的です。が、パンドラの箱に「予知・予見」が閉じ込められたままなので、人間には、予知予見ができないというバージョン版もあります。こっちの方が、本当っぽい感じがします。
 私たちは「死ぬ」ということを、予知予見することはできません。生きている時は、誰も死を想定してないんです。イリアスを読むと、人間は、powerfulに生きている状態から、いきなり死の世界に送り込まれるということが、リアルに判ります。生と死の中間段階のようなものは存在しません。生は突然終わって、死が来ます。生きている時は、死は存在せず、死んだら生は存在しないので、生死のことについて思い悩む必要はないと、エピクロスは語っていますが、まあ、確かにその通りだなという気もします。
 ネロの迫害によって、キリスト教徒は処刑されます。それも、闘技場に引っ張り出されて、野獣に食い殺されたりします。残虐極まりない殺し方です。キリスト教徒は、死の直前まで、集まって歌を歌ったりしています。生きている時に死を予知予見することはできないので、普通に歌えると考えられます。で、死は突然、やって来ます。死後のことは、神さまにお任せです。生きている時に、死後のことを思い悩む必要は、1ミリもないと、多分、言えます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?