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自#102|日々、アンテナを張って、ポジティブな姿勢で、誠実な生き方をしていれば、ある日突然、ブレイクスルーがやって来る(自由note)

 蒸留家の江口宏志さんのインタビュー記事を、アエラで読みました。蒸留家と云う言葉は、広辞苑には掲載されていません。蒸留を生業とされている方は、これまでもいました。その方は、おそらく酒造家を名乗っていたと思います。蒸留家と称したのは、おそらく江口さんが初めてです。蒸留家と酒造家は違います。日本酒やワインを造る人だって、酒造家です。蒸留家は、蒸留酒のみを造ります。より正確で、厳密なネーミングを施して、AIができない仕事を、江口さんはひとつ付け加えたと言ってもいいと思います。

 AIつまりコンピューターは、二進法です。0 or 1の選択です。が、0にも1にも含まれないものがあります。一般のアルコールもそうですし、蒸留酒もしかりです。単純な0 or1ではありません。蒸留酒の正解は、ひとつじゃないし、正解そのものが、存在してないとも言えます。

 私は若い頃、ウィスキーを好んで飲んでいました。つまり蒸留酒のお世話になったわけです。ストレートで飲むこともありますが、それだと咽喉を痛めます。オンザロック、水割り、ハイボール、コークハイ、マンハッタン(これはウィスキーベースのカクテルです)等々、いろんな飲み方をしていました。どれが正解って訳でもありません。強いて言えば、全部、正解です。江口さんがお造りになる蒸留酒も、おそらく全部、正解です。自然界に同じものは存在しません。自然の素材を使って造る蒸留酒にも、おそらく同じことが言えます。

 江口さんが生まれたのは、長野県松本市ですが、保険会社に勤めていた父親は転勤が多く、佐賀、鳥取、千葉と転居します。転居をする度に、ゼロから、友達作りをしなければいけません。親の都合で何度も転校を経験した子供の方が、まあ、一般論ですが、自分を持っていて、コミュニケーション能力も高いと言えます。自分を持ってないと、たちどころにイジメられます。大人たちは、みんな忘れたフリをしていますが、子供の世界は、充分すぎるほど残酷です。

 江口さんが、中2の時、父親は癌で亡くなります。私は、生まれた時から、父親はいませんから、江口さんとケースは違いますが、進路決定をする頃に、母子家庭だったと云う点では同じです。これも、一般論ですが、母子家庭の子供の方が、何とか自分の力で、生きて行かなければいけないと、より固く決心するんじゃないかと想像しています。早く一人前になって、母親を楽にし、親孝行をしたいと、殊勝な子供だったら考えると思います(私は1ミリも考えませんでしたが)。

 江口さんのファミリーは、父親が亡くなったあと、千葉に定住するようになります。近所に雰囲気のある図書館があったそうです。この図書館に入り浸り、まず村上春樹さんが翻訳したレイモンドカーヴァーを読み、カーヴァーが影響を受けたチェーホフを読みと云った風に、読書の連鎖が広がって行ったようです。

 明治大学に進学し、カヌー部に所属します。奥多摩に仲間と家を借りて、カヌーをしながら、大学に通ったそうです。奥多摩から明治大学のある神田駿河台まで、往復5時間以上かかるんですが、その間は、読書に没頭した様子です。毎日、5時間あれば、かなりの分量の本が読めます。長期休暇に入ると、奥多摩に引きこもって、カヌー三昧です。奥多摩に住んでいても、不便のない生活をするために、通販にも興味を持ったそうです。LL.Beanなどのカタログを、隅々まで読み込んで、アウトドアの商品を注文します。店での買い物とは違う、到着を待つ、わくわく感を味わったようです。

 大学卒業後は、通販の会社に就職します。アメリカでアマゾンが立ち上がった頃です。ネット通販の時代が、日本にもやって来ると、確信されていたと思います。就職した会社で、通販の仕組みや仕入れの基本を学んで「自分でもできるんじゃないか」と考え、独立したそうです。通販では、本を売り、本屋兼飲み屋のブックカフェも渋谷にopenします。雑貨も扱い、出版も手がけ、展覧会やイベントも企画し、多方面で活躍されていたようです。

 事業は順風満帆で、成功しています。が、不惑が近づいて来る頃、漠然とした不安に、さいなまれるようになります。人と本、人と人とをつなぎ、イベントをする。どれにも全力で当たるが、すべてが猛スピードで消費されて行く。自分と云うものが消えてなくなりそうな感覚にとらわれます。
「人と人をつなぐとしても、自分自身に何かしらの「もの」がないとダメだなと、思ったんです。たとえば、登山家が選ぶ山の本は、僕が選んだものより、ずっと説得力がある。自分も何かの技術を持っていたら、より人と人の間にも入れるかな」と、語っています。後に一緒に農業法人を立ち上げることになる、井上隆太郎さんと出会います。井上さんは、東京でパーティ会場などで、花を飾るフラワーコーディネーターを20年間続けていました。井上さんは「僕は『作っては壊す』を繰り返す仕事がつらくなっていたんです。せっかく植物が好きなのに、本質的なところで、矛盾しているんじゃないか。僕が『東京の仕事に嫌気がさしている』と言ったとき、江口さんにも、どこか近い思いがあったんだと思う。もっと生涯を通じて、やっていける仕事がしたい」と仰っています。

 江口さんは、「なぜ蒸留だったのか、言葉にするのは難しいけど、すべてが同時に起こっていたんです」と語っています。無印良品の商品カタログの仕事で香りを紹介し、蒸留について学びます。香りのブランドのワークショップに参加します。『何でも手に取って匂いを嗅いで』と云うハイキングで、樹皮や葉、土の匂いの複雑さに魅了されます。そして、ドイツの蒸留家のクリストフケラーの記事を見つけます。
「以前、アートシーンのなかに暮らしていた時は、プロジェクトベースで動き、完全なでっちあげエコノミーだった。プロジェクトをやっては、次のプロジェクトへ。いっぽう農業は、世代にまたがるプロジェクトだ」。江口さんは、この記事を読んで、脳科学者の茂木健一郎先生風の言い方をすると、側頭連合野に蓄えられている、さまざまな記憶や情報が結びつけられ、デフォルトモードネットワークシステムが働いて、ある日、突然、蒸留に目覚めたと言えそうです。日々、アンテナを張って、ポジティブな姿勢で、誠実な生き方をしていれば、ある日突然、ブレイクスルーがやって来ると云った風なことだろうと、想像しています。

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