自#259「才能がないことが武器だと、心の底からいさぎよく開き直ることができたら、死ぬほど辛い苦行にも、耐えられるようになるかも・・・です」

「たかやん自由ノート259」

パラリンピックの陸上競技のアスリートの髙田千明さんのインタビュー記事をアエラで読みました。千明さんは、高校3年生の時、完全に視力を失ったそうです。陸上競技の種目は、走り幅跳びです。跳躍のために踏み切った瞬間の写真が、掲載されています。ボトムは黒タイツ、トップは「ほけんの窓口」の広告が入った模様のある黒Tシャツ。目は開いています。が、光は感じ取れなくて、暗闇の中を走ってジャンプしているそうです。後方に男性が立っています。彼がコーチの大森さんで、踏切のタイミングなどを、手を叩いて教えているんだろうと想像できます。
 千明さんの目に障碍があると判ったのは、5歳の時です。眼科に行くと、いずれ失明する遺伝性の黄斑変性だと診断されます。千明さんは三人姉妹。下に二人、妹さんがいます。一番下の妹さんも、千明さんと同じ病気だと診断されます。父親は、家の中では、明るい振る舞いながらも、度々、玄関先に出て、泣いていたそうです。千明さんは、父親に
「泣いて、治るなら泣いたっていいけど、治らないんだから意味ないじゃん」と、言い放ちます。千明さんの考えは、100パーセント、理解できます。私は35歳の冬、火事に遭って家財道具をすべて失いました。残念だとか、悔しい、悲しい、辛いと云った気持は、1ミリも湧いて来ませんでした。全焼しているアパートを見たあと、デニーズに行って、紅茶を飲んで、本を読みました。済んでしまって、もう取り返しのつかないことは、悩まない、まあこれが私の処世哲学です。
 お父さんは、泣いていましたが、そこはやはり母は強しです。
「失うものを嘆いてもしょうがない。残った機能を存分に生かし、将来、一人でも生きていけるような子育てをしよう」と決意し、まだ視力が残っている内に、色んなものを見せ、触らせ、感触を覚えさせて、周りの状況を判断し、自分で行動できるように仕向けます。お父さんも、休みの度に海や山、キャンプなどに連れて行き、自然体験をさせます。感性を磨き、鍛えるためには、自然の中で、さまざまなことを体験させるのがbestだと、お父さんは考えたのかもしれません。寒かったり、暑かったり、虫がいたり、転んだり、滑ったりと、自然体験は、辛いことやリスクがいっぱいです。千明さんが泣きごとを言うと、両親は決まって、こう言い返します。
「親は先に死ぬ」と。
 私は35年間、フルタイムで教職に従事していましたが、教師として、クラスや部活の生徒が、社会に出て、自立して逞しく生きて行けるように育てたのかと聞かれたら、どう考えても「No」だと言わざるを得ません。高校時代には、人間形成は、到底、完成しないので、あとは大学にお任せと云うスタンスでした。就職希望の生徒は、基本、公務員を目指してもらって、公務員になってから、きっとOJTなどを通して、それなりに育ってくれるだろうと云う皮算用でした。根性があって、メンタルが強ければ、筋を通すとか、約束を守る、嘘をつかないと云った基本的なモラルを身につけていれば、何とか生き抜いて行けると思いますが、どう考えても、昔の人間と比較して、今の若い人は、根性は足りないし、メンタルも弱くなっています。生徒の根性をつけさせるためには、厳しいメニューが必要です。それを生徒に押しつけられるだけの根性は、多分、私にもなかったと思います。生徒だけでなく、教師の我々だって、上の世代に較べたら、人間力は低下しているし、メンタルも弱くなっています。人間力とメンタルが、どんどん弱くなって行く負の連鎖の中で、生徒を完璧に陶冶し、人間教育を施すと云ったことは、多分、もう誰にもできません。が、できないなら、できないなりに、あがくしかないんです。
 記録を伸ばすと云ったはっきりとした具体的な目標が設定できるので、アスリートの方が、ある意味、あがき易いし、努力もできそうだと云う気がします(私には運動の経験はないので、あくまでも想像です)。
 千明さんの御主人の裕士さんは、聴覚の障碍があります。裕士さんの御両親も、裕士さんが将来、一人立ちできるように、厳しくお育てになったようです。耳は聞こえなくても、言葉が話せるように、幼児の頃から猛特訓をします。口の形で、「あいうえお」の発音を覚えさせ、それを何度も繰り返します。裕士さんは
「子どもの頃なので、はっきりした記憶はないのですが、僕は耳が聞こえないから、自分がどう発音しているか分からない。でも、正しい発音をすると、お菓子のたまごボーロがもらえた」と、述懐しています。たまごボーロも偉大です。たまごボーロの会社が、このエピソードを宣伝に使っても、裕士さんはクレームをつけないと思います。
「そうか、その手があったのか」と、このエピソードに勇気づけられて、聴覚障害児の発音教育を始める保護者がきっと出て来ると、推測できます。
 裕士さんの父親も、音楽会や野球場に裕士さんを連れて行って、周りの雰囲気から音が連想できるように尽力されたそうです。ベートーベンは、聴覚を完全に失ってから、第九交響曲を書き上げます。目が見えていれば、努力次第で、音声のイメージを、ある程度、作り上げることは、可能だろうと云う気もします。
 裕士さんの母親の口癖は
「耳が聞こえないことを、言い訳にするな」です。そのため、成績は常に一番が求められたそうです。「Knowledge is power.」、知識は身を助けると、母親は確信していました。裕士さんは、子供の頃、近所の友達と野球やサッカーで遊んで
「スポーツは、たとえ障碍があっても、実力が公平に評価される世界だ」と気付き、スポーツにのめり込みます。横浜国大に進学し、大学時代はインカレで、400メートルハードルやリレー選手として活躍します。
 千明さんは、高1の時、100メートル走とハンドボール投げで、国体に出場し、聴覚障碍の選手たちが、手話で楽しそうに会話しているのを、僅かに残った視力で捉え、自分も手話を学んで、彼等と話してみたいと思ったそうです。その後、裕士さんと出会って、本格的に手話を学びます。視覚障碍の方が、手話をマスターして、手話で自由自在に会話をする、これはパラリンピックで、メダルを取るよりも、すごいことじゃないかなと云う気がします。中学校のボランティア部の生徒が、歌を歌いながら、手話も同時に行って、聴覚障碍の方にも、聞いてもらおうとする姿を見ると、素直に感動してしまいます。手話の勉強をして、手話の通訳ができるTくんと云う教え子がいます。いつか、彼の手話をライブで見てみたいと思っています。
 千明さんは、100メートル走のアスリートだったんですが、種目を走り幅跳びに変えます。走り幅跳びの日本記録保持者の井村久美子さんが、協力してくれます。踏み切りから着地までのフォームを、井村さんの体に触りながら、パラパラ漫画のように、ひとコマひとコマ、体に染み込ませ、走り方を覚えたそうです。
 千明さんのコーチの大森さんは
「千明の武器は、才能がないこと。才能がないから、できるまでとことんやる。その精神力は鋼より強い」と語っています。才能がないことが武器だと、きっぱりと言い切れる潔さに、ちょっと心を打たれてしまいました。

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