自#467「英雄が、どういうものであるのかを知るためには、イリアスを読む以外に方法はないと思います。アキレウスこそ、英雄のオリジナルです。アレクサンドロスも、ハンニバルも、カエサルも、無論、ナポレオンも、オリジナルのコピーだろうと想像しています」

          「たかやん自由ノート467」

 高1の時、「イリアス」を読んで、どこがいいのか、正直、まったく判りませんでした。イリアスが、どういう物語なのかというアウトラインは、読む前から知っていたつもりでした。が、私が知っていた内容とは、違っていました。アートは、好きですから、ヘレニズム時代の「ラオコーン」の彫刻の写真は、中学時代に、何度も見てました。古代ギリシアのアートは、彫刻も絵画もほとんど残ってません。ヘレニズム時代の三つの作品(ラオコーン、ミロのヴィーナス、サモトラケのニケ)が、古代ギリシアの作風を今に伝える、大傑作だと言えます。
 ラオコーンの作品は、古代彫刻の中の、ベスト3のひとつです。ラオコーンは、トロヤの神官です。ギリシア軍が置いて行った木馬を怪しいと疑って、城内に引き入れることに反対し、木馬に槍を投げつけたりもします。そうすると、パラスアテナorポセイドンのどちらかが、海ヘビを送り込んで、ラオコーンと、ラオコーンの幼気(いたいけ)ない二人の子供を、絞め殺します。ラオコーンは、断末魔の叫び声を上げています。人間が絞め殺される時のsceneを完膚なきまでに、リアルに表現しています。いよいよ死ぬという時の、死に方のひとつの典型を、後世のアーティストに明示してくれた、すぐれた作品です。イリアスは、決して、架空の物語ではなく、実際に起こった歴史的な事実だと確信して、貿易商人として長年資金を蓄え、発掘の準備をし、とうとうトロヤの遺跡を発見したシュリーマンの気持ちすら、ラオコーンを見ていると、伝わって来ます。高1の時に、イリアスを読もうと考えたのは、ラオコーンが絞め殺されて、断末魔の悲鳴を上げているsceneを、活字の物語を通して、再確認したいってとこもありました。
 最後、トロヤの城市は焼け落ちます。アエネイスが父親のアンキセスを背負って、息子のアスカニウスを連れて、燃え盛るトロヤから脱出しようとするルーベンスの絵も、中学時代に何回か見ていました。ホメロスは、トロヤの城市が焼け落ちるのを見て、詩想を巡らせ、イリアスを書いたと、ローマ皇帝のネロは信じていました。で、ネロは、ローマの街に火をつけて、ローマが燃える景色を見て、歌詞を書きました。
 トロヤの人々は、馬に弱かったんですが(木馬の馬がぬいぐるみのキャラクターのように、可愛くて、ついつい城内に引き入れてしまったんです)、アキレウスの弱点は、もちろん、アキレス腱です。アキレウスの母親のテティスは、息子を不死にするために、スティクスの水に、アキレウスの身体を浸したんですが、その時、握っていたアキレス腱のとこだけが、不死の水に浸ってなくて、不死身にはなってなかったんです。アポロンは、パリスに、アキレウスのアキレス腱を狙って打てと指南します。で、パリスが放った矢が、アキレス腱に刺さり、アキレウスは斃れます。プリアモス王の長男のトロヤNo1の英雄、ヘクトールを、アキレウスは斃し、そのアキレウスは、パリスの放った矢によって、死にます。まさに、諸行無常、盛者必衰の理(ことわり)を表していると納得してしまいそうです。
 But、Although、Nevertheless(逆接のconjunctionを三つも並べてしまいましたが)イリアスには、こういうKing of climaxみたいな光景は、一切、描いていません。ラオコーンも、木馬も、トロヤの炎上も、アキレス腱に突き刺さる矢も、出て来ません。そもそも、イリアスは、ヘクトールが死んで、父親のプリアモス王が、息子の亡骸を返してくれと、アキレウスのとこに頭を下げに来て、ヘクトールの死体をトロヤの城市に引き上げ、ヘクトールの死体を燃やすとこで、物語は終わっています。
 トロヤの木馬の話や、その後のトロヤの焼失は、オデュッセイアの中で、オデュッセイの懐古譚の中で、少し出て来ます。私は、読んでませんが、ヘクトールが死んでからのトロヤの物語は、ヴェルギリウスの「アエネイス」に書かれているんだろうと推測しています。ヴェルギリウスは、自分が書いた「アエネイス」を焼却して欲しいと、遺言をして死にましたが、アウグストゥス(オクタヴィアヌス)が、これを出版しました。ヴェルギリウスにしてみると、イリアスの足下にも及ばない作品なので、焼却したかったわけです。古代ローマの文芸は、アート同様、古代ギリシアに較べると、かなり格落ちします。文芸の方は、私はギリシア語もラテン語も皆目解らないので、正しく判断することはできませんが、アートの水準が格落ちしていることは、中学時代ですら、理解していました。ポンペイの壁画とか、床のモザイク画とか、アートとしてそれなりに、すぐれたものなんだろうとは思います。が、古代ギリシアのような、明るくて、晴朗、英語で言うとbrightで、clearで、sereneなとこが、ローマのアートにはないです。精巧で複雑ですが、どれも、独特の暗さがあります。
 イリアスは、アキレウスが活躍する英雄物語だと、イリアスを読む前は、単純に思っていました。が、アキレウスは、最後、ヘクトールを斃した場面で活躍するだけです。八面六臂の大活躍をするのは、アキレウスの武具を身にまとった、親友のパトロクロスです。パトロクロスが大活躍をして、ヘクトールに討たれて死ぬsceneが、この物語のクライマックスだと、多分、言えます。
 アキレウスは、間違いなく英雄です。どういうキャラが、どんな風に行動して、どういう風にモノゴトを考えたら英雄なのか、ということは、イリアスを読まない限り、判りません。アキレウスが正真正銘の英雄であることは、日本語の翻訳のイリアスを読んでも判ります。全編、最初から最後まで、大活躍する必要など、まったくないです。親友のパトロクロスが殺されて、その復讐をするために、アキレウスが戦場に乗り込んで来て、ヘクトールを斃しますが、どのsceneを切り取っても、金太郎飴のように、アキレウスの英雄ぶりを垣間見ることができます。イリアスを読まない限り、アキレウスとヘクトールを、正しく比較することはできません。イリアスを読めば、アキレウスは英雄で、ヘクトールは、アキレウスほどのauthenticな英雄ではないと、はっきり判別できます。パトロクロスは、もちろん、英雄じゃないです。才能がなくて、努力だけの人でも、あれだけの大活躍ができるということを、後世の人たち、21世紀に我々にまで、知らしめてくれます。
 Everyone is not Achilles.誰もが、アキレウスになれるわけじゃないし、まあ普通、なれません。が、パトロクロスには、努力すれば誰だってなれます。普通の人の努力の価値を認めている教訓譚だと云う風にも読めます。

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