自#405「問題を解いていて、喉元まで出かかっていて、思い出せない用語があったりします。取り敢えず、それはスルーして、先に進んで下さい。最後、時間があれば、三回くらい深呼吸すれば、三割くらいの確率で、その用語は思い出せます」

         「たかやん自由ノート405」

 内田樹さんの「疲れすぎて眠れぬ夜のために」という本を読みました。この本の中で、内田さんは「身体の感覚を蘇らせる」というテーマでメッセージをお書きになっています。疲れすぎても、眠るのは可能だと思いますが、身体の感覚は麻痺します。疲れすぎないことが、身体の感覚を蘇らせるためには、多分、必要です。このメッセージは、身体の感覚を蘇らせて、バランス良く生きて行くことが、大切だという風な意図で、お書きになったんだろうと勝手に想像しています。

 身体の感覚とは、頭脳では理解できないことを感知し、判断を下せるある種の能力だと私は考えています。合理的な理屈では、判断できないことが、人生には、多々あります。その場合、人は勘で行動します。身体の感覚を蘇らせておかないと、勘は鈍り、誤った判断をしてしまいます。身体の感覚を蘇らせるための伝統的で、メジャーなメソッドが、つまり剣道や合気道といった武道なんだろうと想像しています。私も、武道を、ほんのさわりくらいは経験しています。剣道と柔道と少林寺拳法の三つを、トータルで1年半くらい学びました。平均するとそれぞれ半年ずつです。半年では、何ほどの技術も身につきませんが、その武道がどういうものであるのかは、おおよそ理解できるようになります。武道の要諦は呼吸です。呼吸が整えないと、相手の気を察することができません。

 文武両道という言葉があります。高校の現場では、勉強と部活や行事を両立させるといった風な意味で、使われています。平家物語に「あっぱれ文武二道の達者かな」というフレーズがあります。つまり、鎌倉時代から使われていた言葉です。判断力を高め、英知を極めるために、文武両道の修業をするんだろうと私は想像しています。

 武道を通して学ぶ呼吸は、判ったか判らないか、微妙なとこで終了してしまいました。呼吸を学ぶためには、やはり禅がベストだろうと判断し、若い頃から、坐禅には親しんでいました。呼吸については判りました。ただ、正しく呼吸できるのは、坐を組んで、坐禅をしている時だけです。日常生活で、正しく呼吸できるというレベルには到達できてません。

 呼吸が乱れると、間違いなく判断力は低下します。怒って、心拍数が上がり、とんでもなく薄い呼吸になり、最後、人を殺してしまう、絶対にそうならないように、呼吸をきちんと整える、坐禅を組んでいる時、これを、エンドレスに何千回もシュミレーションしました。人を殺しそうになったら、立ち止まって、大きく静かに深呼吸をする。人を殺さないコツはつかみました。普通、人を殺したりはしないだろう、それが常識だと、思われているのかもしれませんが、人の常識のタガとかは、案外と外れ易いものです。現に、私は61歳で、認知症の母親の介護をしている時、このままでは、自分の母親を殺してしまうと、身体感覚で判断し、母親の介護を放棄しました。親不孝で、無責任極まりない行為です。が、続けていたら、非常に高い確率で、私は母親を殺し、自分も死んでいたと思っています。結局、介護は女房に丸投げして、その後、病院に入院させました。61歳なのに、相変わらず、親不孝で、責任感のない無能な人間だと、認知症の母親は、私に知らしめたわけです。これは、きっと、母親の最後の復讐だったんだろうなと、私は思っています。

 坐禅で、人を殺さないシュミレーションをしたりしている人間が、悟れる筈がないです。ただ、気を察する感度は上がったと自負しています。ある夜、円覚寺の入り口(狭い通用門)を潜ると、はるかに離れた本堂から放たれる、強烈なオーラを感じました。レーザー光線のビームのように、身体に突き刺さって来るような感じがしました。あとで聞くと、円覚寺のS和尚さんが、本堂で坐を組まれていたそうです。宝物開帳の時期だったので、防犯のためにお座りになっていたんです。S和尚さんは、もう遷化されていると思いますが、私が直接見たことがある方の中では、No1の禅僧でした。

 気と言っても、オーラと言っても、どっちでもいいと思いますが、科学では解明できないとしても、レーザー光線のような物質的なものを放射していると私は理解しています。内田さんは、人の背後でハンカチを落とす遊びをサンプルにして、説明しています。背後ですから、ハンカチが落ちるsceneは視覚では確認できません。が、鍛錬すれば、ハンカチが落ちる気配は、察することができるようになります。気を背中で感じるからです。この場合も、呼吸が乱れていると、気は感じ取れません。

 私は、36歳の冬、火事に遭いましたが、火事でアパートが燃えている時は、吉祥寺のデニーズにいました。その日は、デニーズのカウンターで、オールをしました。その頃、デニーズにはしょっちゅう出かけて、カウンターで紅茶を飲んでいましたが、オールをしことはありません。いつも、深夜の12時くらいには帰宅していました。が、その日に限って、カウンターでプリントの原稿を書き上げたあとも、本を読み続けて、夜が明けてから帰宅しました。で、帰ったら、部屋が火事で消滅していました。火事の危険性を、「気」として、デニーズにいた私が感知し、それでいつもとは違う行動を取ったのかもしれません。アパートでぐっすり寝込んでいたら、一酸化中毒で脳をやられ、そのまま焼け死んでいたということも、充分考えられます。

 気はおそらく時空を超えます。時空を超えるから、名所・旧跡というものが、具体的な裏付けをもって成り立つと、想像しています。攻殻機動隊の草薙少佐は、ゴーストが囁きかけて来るというフレーズを使いますが、それは、結局、気を察すると言うことだと私は理解しています。

 4年前に、長野の白馬に合宿に行った時、ホテル別館の裏庭の資材置き場の水たまりの水が腐っているあたりで、強烈な気を感じたことがあります。この気を慰めてあげなければいけないと感じて、ホテル側には反対されたんですが、その資材置き場で、帰る前の日の夜、みんなで花火をやりました。合宿から帰って来て、OBが、宿泊したホテルは事故物件だったと調べて来て、ホテル側に問い合わせると、資材置き場で首を吊って、死んだ人がいたそうです。自殺した人のオーラを感じて、そのオーラを慰めるために、その場所で、強引に花火大会を、私が実施した、うーん、なかなかいいことをしたんじゃないかと、人に自慢したい気持ち満々でした(少しは自慢しました)。

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