自#318「温故知新、過去と向き合うことによって、未来の次の一歩が、見えて来たりするものです」

          「たかやん自由ノート318」

 タレントのサヘルローズさんのインタビュー記事を読みました。サヘルさんは、7歳まで、イランの孤児院で過ごし、8歳の時、里親と一緒に来日し、その後は、日本で暮らします。サヘルさんは、まったくの孤児で、両親の存在は不明ですし、いつ生まれたのかも、正確なことは判りません。

 私が子供の頃、孤児院という言葉はもう使ってなくて、養護施設と言ってました。私が生まれたのは1954年です。翌年の1955年は、いわゆる55年体制(自由民主党、社会党が発足し、共産党も暴力革命を放棄しました)が確立し、「もう戦後ではない」と言われた年でした。両親の存在も知らないという孤児は、私が知る限り、いませんでした。養護施設には、親(ほとんど母親)はいても、育てられなくて預けているとか、親が蒸発したと云った子供がいました。

 養護施設と家庭を比較するのは、無意味です。が、両者に共通しているのは、子供には選択権がないと云うことです。虐待する親が嫌だと思っても、子供は親を選べません。養護施設が嫌でも、入らないと云う選択肢を、子供が行使することはできません。自分の親が、賢い、いい親であれば、子供は幸せになれるし、養護施設でいい人に巡り会えば、子供は、生きる力を身につけることができます。子供の頃のそういう人との出会いによって、その後の人生は決定されます。

 サヘルさんは、孤児院で過ごしていたと云う記憶を、どうやらなくしていたようです。里親に引き取られて幸せになったからなくしたのか、あまりにも辛い過去だったので、抑圧してしまったのか、とにかく、里親を自分の実の母親だと思っていました。里親は、真実を知らせるべきだと判断して、サヘルさんに
「サヘルは私の子供じゃない。私は、テヘランの孤児院であなたを引き取った」と、告知します。サヘルさんは12歳でした。
「だから、わたしはお母さんに顔が似てないんだ。赤ちゃんの頃の写真がないのは、自分が孤児だったからなんだ」と理解し、その後、10年以上、自分の過去と向き合えなかったそうです。

 サヘルさんのお母さんは、結婚していて、夫がいました。その夫が日本にいたので、頼って来日したんですが、一緒に暮らし始めると、上手く行かず、結局、母子二人で、高井戸のアパートで生活します。家賃二万円。トイレ共同。小さな台所が部屋にあります。お風呂がないので、タライに入れた水に沸かしたお湯を加え、それで体や髪を洗っていたようです。冬場は寒くて、ひとつの布団で、二人で抱き合って寝たそうです。

 貧乏なので、クラスメートのようにディズニーランドに行ったりすることはできませんが、お母さんは、アメ横やデパートに連れて行ってくれたそうです。洋服を見たり、試食品を食べたり、おもちゃコーナーで遊んだり。「何を買うわけでもなかったけど、とても幸せな時間だった」と、サヘルさんは回顧しています。お母さんは、「ないもの」じゃなく、「あるもの」について語ったそうです。「鍵を開けて入れる部屋がある」「お風呂はないけど、屋根がある」。残金が500円しかなくても「ほら、サヘル、500円もある」。お母さんは、時々、サヘルさんだけに、醤油ラーメンを食べさせてくれたそうです。まさに、「一杯のかけそば」の世界です。

 高校は園芸高校の定時制に進みます。定時制を選んだのは、昼間、働かなきゃいけなかったからです。園芸高校にしたのは、構内で育てている野菜を持って帰れると聞いたから。自分で育てたナスを持って帰ったら、お母さんが「ナスのトマト煮」を作ってくれて、どうやらそれは、イランのソウルフードだったようです。

 定時制はdiversityに富んでいます。昔、学校に行けなかった高齢の方、全日制を中退したドロップアウト組、生活が苦しくて昼間働いている人。全日制のあの「人の圧」が嫌で、定時制に通う生徒もいます。私が定時制に勤めていた時
「登校する時、ちょうど全日制の生徒が帰る頃で、電車の中で、にぎやかに元気良く喋っている。これを聞くのが本当に辛い。学校に登校する前に、すでに心がやられている」と、こぼしていた生徒がいました。定時制の同僚の女の先生が、転勤される時、私のとこにも挨拶に来てくれたんですが
「実は、結婚する。初婚。これからの人生がまったく見えない。暗中模索」と、簡潔にカミングアウトされました。彼女は、50代の後半。全日制で、これはないなと、言い切れます。生徒同様、先生方も、その頃の定時制はdiversityに富んでいました(今もそうなのかどうかは判りません)。

 サヘルさんは、ティッシュ配り、コンビニ店員、イラン大使館主催のイベントのお茶くみ、絨毯の展示場の織子・・・等々のアルバイトでお金を貯め、東海大学に進学しています。日本人の普通の高校生で、アルバイトでお金を稼いで、大学に行ったと云う話は、一度も聞いたことがありません。20年くらい前に、新聞を配りながら大学に通っている卒業生がいましたが、その後、新聞奨学生は、一人も見てません。

 サヘルさんは、テレビの外国人レポーターのオーディションを受け、ニュースバラエティ番組に出演するようになります。テレビの世界で働いて、「成功している人は、誰もが努力している。そして、努力していると、人とのつながりが生まれ、そのつながりで芸能界ができている」と云う仕組みを理解します。

 サヘルさんの転機になったのは、NHKの女性のディレクターに、故郷の孤児院を訪問するドキュメンタリー番組を提案されたことです。サヘルさんは28歳でした。テヘランのその孤児院には、サヘルさんのことを覚えている職員さんがいたそうです。孤児院には百人くらいの子供がいて、青組、赤組、黄組と部屋が分かれていて、サヘルさんは、青組にいたそうです。サヘルさんは、語っていませんが、孤児院にいた頃の記憶は、ある程度、甦って来た筈です。

 自分がどういうとこで、育って、過ごしたのかを知ることは、とても大切です。過去の生い立ちの重要な記憶がファジーだと、自己のアイデンティティの一部もファジーになってしまいます。ディレクターさんは
「故郷に帰ることで、心の葛藤が少しは解消されるかもしれない」と言ってくれたそうです。サヘルさんは
「自分が育った場所を見たことは、やっぱり大きかった」と語っています。
 自分探しとか、自分作り、アイデンティティの確立みたいなことを、よく人は言うわけですが、「じゃあ、具体的にどうするんですか?」と聞いてみたくなります。未来のことは、未だ来たらずで、見えないので、取り敢えず、さて置いていいです。自分の過去のことは、努力して、工夫すれば、見えて来ます。どんなにしんどくても、自分の過去ときちんと向き合わないと、人は、本当の意味で、前には進めないと思います。まさに、温故知新って感じです。

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