自#382「文学系も社会思想系も、若い内に読んでおかないと身につきません。バイトとリア充とサークル活動、就活だけで学生時代が終わったら、もったいなさすぎます」

           「たかやん自由ノート382」

 出口治明さんの「人生を面白くする本物の教養」を読みました。出口さんにとって、教養のベースは読書です。出口さんに限らず、多くの人がそうです。が、本をほとんど読まない教養人も、存在しています。ビジネスや政治の世界には、そういう人が多いだろうと想像しています。ごくrareですが、教員にも本を読まない教養人がいます。私が、定時制高校勤務時代にお世話になったK校長も、そういう方でした。「ニシモリさん、オレは、本を読まないよ」と、何ごともなくフレンドリーに仰っていました。K校長の自宅が私の住まいの近くだったので、自宅に伺ったこともあります。書斎らしき部屋には、本が一冊もありませんでした。大学時代、民俗学を専攻していたらしく、全国各地の民芸品が、数多く部屋に置かれていました。

 ある時、K校長に、レゲエについて手短に、解るように教えて欲しいと言われました。時刻表オタクは、時刻表に関することなら、何時間でも喋れると思いますが、私もロック音楽でしたら、脈絡なく、いくらでも喋れます。が、レゲエは、ボブマーリーのことくらいしか知りません。カリブ海のジャマイカで生まれたホットなオリジナルのレゲエと、ロンドンで編集、アレンジされてsophisticatedされたレゲエは、やはり違います。ラスタファというアフリカに回帰するコンセプトが解らないと、ボブマーリーの音楽はつかみにくいんですが、言葉で説明することは、ちょっと不可能です。ボブマーリーはミュージシャンでしたが、同時に社会活動家でもあり、ステージ上で狙撃されたこともあります。レゲエ&ボブマーリーを語るのは、なかなか厄介なテーマだったんですが、ひとコマ(定時制のひとコマは45分)ほど、何やかや喋りました。K校長は、まるで高校生のように、レゲエの本質を感覚的かつ生理的に理解されました。特殊な能力です。が、本は読まないと決めてしまえば、人の話を聞いても、優先順位をつけて大切な箇所を理解し、talkingを通して、教養を身につけることは、可能なんだろうと想像しました。が、私は、読書派なので、人の話を聞くよりは、本を読んだ方が、手っ取り早いだろうとは思ってしまいます。

 内田樹さんが、今週号のアエラのコラムに「若い人が、本を読まなくなったと嘆く者がいたが、私たちの時代だって、似たようなものだった。読まないとバカにされるから、やせ我慢で、読んでいただけである」とお書きになっています。「あっ、確かにそうだったな」と、思わず頷いてしまいました。宮沢・清宮の憲法Ⅰ、Ⅱとか、ケインズの「雇用・利子および貨幣の一般理論」(これは読み通してなくて、学生の頃は、読んだフリをしてただけです)とか、ヘーゲルの「歴史哲学講義」とかは、ほぼ見栄で読んでいたと記憶しています。今のように、大学生が本を読まないことが当たり前になると、こんな小難しい本を、大学生が、自主的に読んだりする筈はないです。難しい本を読む場合も、マスクをしてない人をバッシングするのと同じように、一種の同調圧力が必要です。池上彰さんは、東京工大で、やたら難しい本を学生たちに読ませていますが、それは、「このコミュニティに所属したいのであれば、難しい本を読まなければいけない」という同調圧力が存在するからです。

 出口さんは、大学に入ってから、社会科学系の本を読み始めます。三重の田舎で暮らしていた出口さんは「チボー家の人々」とか「カラマーゾフの兄弟」といった、まあ文学王道の読書は高校時代にしていたんですが、東京や大阪から来たクラスメートは、マルクスやレーニン、トロツキーなどを読んでいたそうです。出口さんは、1948年生まれです。つまり全共闘世代です。で、大学は紛争の激しかった京都大学。全共闘世代の京大生が、マルクスもレーニンも知らなければ、まあ当然、見下されます。「オマエ、マルクス読んだことあるのか?」と聞かれて、正直に「名前は知っているけれど」と答えると、バカにされて相手にしてもらえなかったそうです。で、頑張って、マルクス、レーニン、ヘーゲル、カント、アリストテレス、プラトンなど、社会思想系の本を集中して読みます。中央公論の「世界の名著」にはお世話になったそうです。確かに、これが一番、読み易いだろうなと想像できます(私も、このシリーズで、社会科学系を多少かじりました)。が、同調圧力で読んだものは、そうそう身につきません。出口さんの学生時代は、丸2年間くらいは、全共闘の闘争で、学舎が占拠されていて、授業がなかったんです。が、出口さんは、その間、下宿に引きこもって、毎日、14、5時間、本ばかり読んでいたそうです。マルクスやレーニンが、多少なりとも身についていれば、運動の中心メンバーになったりはしなくても、少なくともデモくらいには行った筈です。そもそも、マルクスやレーニンをちゃんと読んだ人間が、生保の会社(日本生命)で、幹部になるなんてことは、あり得ないことです。社会思想系の読書に関しては、何ちゃって読書だったんだろうと、私は想像しています(まあ、私自身も、社会思想系は、やはり何ちゃってでしたから、このヘンは、理解できます)。

 出口さんは、小学生の時、「少年少女世界文学全集」の全50巻を買ってもらっています。1ヶ月に一冊ずつ配本されたそうです。これは正直、羨ましいです。もし、小学生の頃、こういう体験をしていれば、私は、多分、文学者になっていました。小学生の頃は、毎週、少年マガジンを買っていました。「巨人の星」も「あしたのジョー」も「ハリスの風」もリアルタイムで読んでいます。それはそれで、貴重なかけがえのない体験ですが、少年マガジンから文学者になるのは容易ではありません(もっとも、市民図書館に置いてあった、少年少女世界文学は、そこそこ読みましたが)。

 20代の後半、志賀直哉の全集が配本されて毎月一冊ずつ購入していました。ですから志賀直哉は全集で読んでいます。東京に上京する時、この全集は処分しました。出口さんは、「少年少女世界文学全集」を、今でも実家に残してあるそうです。本は、生涯に渡って読めます。が、自己の教養のベースの部分を作りあげてくれるのは、10代と20代の前半に読んだ読書だと、私は思っています。30代以降の読書というのは、身体が衰えないように筋トレするのと同じで、脳の活動が衰えないように、メンテをしているようなものです。私は、マルクスもレーニンも毛沢東もちゃんと読んだことはありません。今からもしちゃんと読んだとしても、絶対に身につきません。文学も、社会思想系も、25歳までが勝負です。

 出口さんは、読書をするためにゴルフはやらなかったそうです。ゴルフと野球の話をする、まあこれが、昭和世代のビジネスマンって感じがします。ゴルフをやらないと、ビジネスマンとして、不利だとは推定できますが、それよりは読書だったわけです。私は、ゴルフはもともとやらなかったので(大量の農薬を使って、雑草を駆除しているゴルフ場に行きたいと思ったことは一度もありません)アルコールをやめました。本とアルコールと、どっちが好きだったのかと言えば、アルコールの方だったような気がしますが、アルコールを飲んでいたら、それだけで人生が終わると直観できていました。アルコールをやめて、本を読み続けて来て、これはこれで。良かったと思っています。

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