自#407「私が飛行機に原則、乗らないのは、飛行機が怖いからではなく、speedが速すぎて、嫌なんです。新幹線も本当はスルーしたいんですが、新幹線を使わないと移動しにくいダイヤを、JRが組んでいます。新幹線は、まあしょうがないと妥協しています。上手に生きて行くためには、時には妥協も大切です」

         「たかやん自由ノート407」

 内田樹さんの「街場の共同体論」を読みました。この本の中で、師弟関係について語っています。内田さんの合気道の師は、多田宏先生、哲学上の師は、エマニュエルレヴィナス先生です。レヴィナス先生には、私淑されたわけです。私は、長年、高校の現場にいますから、高校では師に出会わなかったんだろうかと、つい考えてしまいます。が、内田さんは、高2で、日比谷高校を退学しています。尊敬する師がいれば、その師の顔を立てるというsimpleな理由で、少なくとも卒業はすると思います。内田さんは、全共闘世代の一番下の学年です。高校紛争もそれなりにあったでしょうし、そういう紛争時に、教師をリスペクトしたりすることは、建前としてできなかったでしょうし、リスペクトできるだけの落ち着いた人間関係を築くことも、難しかったんだろうと、想像できます。
 私は、死んだJ叔父も従兄のたっちゃんも、尊敬し、影響も受けていますが、肉親の場合は、「師」という概念は、当て嵌まらないような気がします。尊敬をし、影響を受けたまったくの他人が、師だと私は思っています。
 小学校時代は、尊敬できる先生には、出会いませんでした。私が知る限り、差別をする先生ばかりでした。が、親が水商売で、私生児ですから、差別されて当たり前です。差別されることに対する反発心とか、怒りとか、憤怒とか、人生で一度も持ったことがありません。ただ、身体的な暴力のイジメを受けた場合は、徹底的にやり返しました。やられた分の倍は、返したと思います。小学校は3つ行きましたから、2回、転校しています。転校すれば、当然、イジメられます。最初のバトルで、きっちり倍返しをしておけば、周囲は様子を見るようになります。もし、上の学年の先輩に、束になって囲まれたら、その場では、ボコボコにされても、あとで必ずそのヘッドの先輩を、一人だけバットで、ボコボコにしてやろうと考えていました。やられたら、100パーセント、絶対にやり返すという気配は、先輩たちにも伝わっていたらしく、どこの学校でも、私は先輩にはイジメられず、逆に、可愛がられました。
 中学時代は、やさぐれたヤンキーでした。好きな先輩はいましたし、音楽に造詣の深い先輩もいて、結構、楽しかったんですが、リスペクトできる先生や先輩には、出会いませんでした。
 高校を中退して、バーテン見習いになって、働き始めたGという喫茶店で、Yさんと出会いました。Yさんの正確な年齢は判りませんが、50代だったと想像しています。ドリップコーヒーの淹れ方も、チョコレートパフェやココアの作り方も、マティーニのステアの仕方も、カレーの仕込み方も、ミートソースの作り方も、すべてYさんに習いました。喫茶店のバーテンのノウハウは、perfectに教わりました。私が、初めて出会った師は、このYさんです。翌年、別の高校に入り直してからも、休日や長期休暇の時は、ちょいちょい手伝いに行ってましたから、15歳~18歳の多感な時代に、Yさんの影響を受けたと自覚しています。
 Yさんは、イケイケの上昇志向とはまったく真逆の、人生を降りた生活をしていました。酒は好きだったが、身体を壊して飲めなくなったと言ってました。ですが、最高に美味なマティーニを作っていました。耳が聞こえなくなっても、すばらしい曲を書く作曲家はいるわけですから、たとえ自分自身は飲めなくなっても、昔取った杵柄+その後の経験値で、美味なカクテル作りはできるのかもしれません。飲めなくなってからは、欲がなくなったとも言ってました。たとえ飲めなくなっても、美味なものを食べたいとか、上手い煙草を吸いたいとか、女の子にモテたいとか、外車に乗りたいとか、欲はいくらでもあるような気がしますが、アルコールを飲むことが、本当に好きだったら、それ以外の欲は持たないのかもしれません。
 バーテンですから、美味なものを作らなければいけません。が、バーテンが美味なマティーニを作りたいとかって、所詮、ささやかな欲です。ほとんど無欲でも、手順をマスターすれば、美味なマティーニは作れます。私自身、子供の頃から、たいして欲のない人間でした。美味なものを食べたいとか、玩具が欲しいとか、遊園地に行きたいとか、サイクリング車が欲しい・・・等々と考えたことは、子供時代を通して、一度もありません。Yさんとはウマが合いました。Yさんに「オマエは何が好きなんだ」と聞かれて「音楽です」と答えると「音楽は金がかかるぞ」と忠告されました。「金をかけないように、ほどほどで楽しみますよ」と返事をしました。今、毎日、ハードオフで千円で買って来たCDラジカセで、音楽を聞いています。15歳の自分が言ったことは、きちんと実践できています。 高校に行かず、そのままバーテンを続けるという人生の選択肢もあったわけですが、高校は通過儀礼だと考え直して、もう一度、別の高校に入り直しました。J叔父は、東京の大学でアカになって死んだと、言われていたので、アカになったら、本当に死ぬのかどうか、そのヘンの事実はきちんと確かめなければいけない云う使命感もありました(結局、私はアカには一度もならず、中道やや左寄りくらいのスタンスで、ずっと過ごして来ました)。もっとも、東京の大学に行ってアカになっても、死ぬ筈はないとも思っていました。たとえ、大学に行っても、いつでも水商売のバーテンの世界には、戻って来れるいう安心感と、根拠のある自信もありました。
 再び、高校に入学し、世界史のS先生と出会いました。親友のHは、私をまったく差別しませんでしたが、S先生にも差別されませんでした。Hと出会うために最初の高校に行き、S先生と出会うために、また別に高校に入り直したと、私は、客観的に位置づけています。Hと一緒に、別の高校に入学し、もう一度、高1をやり直しました。Hは、高校では師に出会わなかったんですが、好きな女の子はできたし(もっとも高校時代はずっと片思いです)、一個下でしたが、友だちにも恵まれていました。お互いに二度目の高校生活は、充分にhappyでした。
 S先生は、私が世界史を好きだという、そのことだけで、私を評価してくれました。S先生が考えてくれていたほど、私は世界史が好きだったとは、自分では思ってません。ただ、シェークスピアは読んでいましたし、バルザックやドストエフスキーは、本当に好きでした。S先生の好きなベートーベンも、普通に普段から聞いていました。私が、ミケランジェロやレンブラント、セザンヌなどの美術に興味関心を持っていることを、高く評価してくれていたんだと推定しています。読んでも意味がさっぱり分からないのに、見栄でアリストテレスやニーチェなども読んでいました。読書に関して言えば、間違いなく、私は意識高い系でした。もっとも、高校時代、市民図書館で、週刊新潮や週刊文春も愛読していました。まあ、これは人には言えない、意識低い系のエンタメでした。平凡パンチや週刊プレイボーイは、堂々と読んでいると言えるのに、週刊新潮や週刊文春は、恥ずかしくて言えませんでした。周囲の同調圧力に対して、私なりに気配りをしていたということです。
 S先生も、人生を降りている系の方でした。10代の多感な時期に、人生を降りているYさんとS先生に出会って、意識高い系のイケイケには、なりたくてもなれず(別段、なりたいという欲もなかったと思いますが)鈍行列車で、ゆるゆる進むような、人生を過ごして来たんだろうと、冷静に自己分析しています。

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