自#311「昨日も聞いた、今日も見た、早稲田の杜に青成瓢吉が出る、と云う前説で、人生劇場を、早慶戦に勝った時、応援団が歌っていたんですが、今でもやっているかどうかは、判りません」

          「たかやん自由ノート311」

 中野翠さんが「あのころ早稲田で」の中で、紹介していた「突破者」(とっぱもの)と云うドキュメンタリーを読みました。「突破者」の著者は、グリコ森永事件の犯人に一時期、擬せられていた宮崎学さんです。宮崎さんは、京都の伏見に拠点を置いていた寺村組というヤクザの組長の息子です。小中学校の時に、勉強を見てくれた家庭教師の影響で、マルクスの「共産党宣言」やレーニンの「何をなすべきか」と云った本を読みます。共産党宣言の「共産主義者は、自らの目的は、既存の全社会組織を暴力的に転覆することによってのみ達成できることを、公然と宣言する。支配階級をして、共産主義革命の前に戦慄せしめよ。プロレタリアは、この革命によって、鉄鎖の他に失うものは何もない。得るものは全世界である。万国のプロレタリア、団結せよ!!」と云う結びのメッセージに感動したそうです。宮崎さんが共産党宣言を読んだのは、カストロ・ゲバラのキューバ革命が、成功した直後くらいだと推定できます。共産主義革命と云う言葉には、今とは較べものにならないくらいのrealityがあった筈です。

 宮崎さんは、当時の共産党の大物の谷口善太郎さんを訪ねて、共産党の党員になりたいと申し出ます。谷口さんは「党員には18歳以上やないとなれん。それまでは、勉強しとけ。運動がしたい? 運動なんかせんでもええ。あんなものは、いつでもでける。それより大学に行け。大学に行って世の中のことを、しっかり勉強せえ」と、しごくまっとうなアドバイスをしたそうです。戦前・戦中の軍部独裁的な日本の中で、最後まで抵抗し続けたのは、共産党だけです。そういう意味では、共産党は、偉大な過去の財産を持っていたと言えます。

 ソブールの「フランス革命」や河野健三の「フランス革命小史」のどちらかの後書きに、「革命にのりおくれてしまうことの恐怖」と云ったことが書かれていて、宮崎さんは、これを読んで「俺はのりおくれんぞ。先頭切ったろ」と、力んでいたそうです。谷口さんは、「一橋の経済に行って、マルクス主義経済学をやれ」と、アドバイスしたそうですが、革命に乗り遅れたくない宮崎さんは、当時の学生運動のメッカだった早稲田を目指します。

 一浪して、一年間、喧嘩も遊びも控えめにし、早稲田の法学部に合格します。両親は地元のどっかの大学(と言っても知っていたのは京大と同志社、立命館くらいだと思いますが)に行くものだと考えていたので、東京の大学に行くと知って驚きます。早稲田という大学名も知りません。宮崎さんが「吉良の仁吉とも縁のある学校なんや」と説明すると、「ほう、それはええ。男は義理と人情で生きないかん」と、頷いたそうです。
 早慶戦(神宮で実施される野球の早慶戦です)で、慶応に勝った時のみ、応援団の代表が、人生劇場を歌います。前説付きです。
 昨日も聞いた、今日も見た
 早稲田の杜に青成瓢吉が出るという
 会うが別れの始めとか
 サヨナラだけが人生さ
 尾崎士郎原作 人生劇場いざ序幕
と、これが前説です。で、
 やると思えば、どこまでやるさ
 これが男の意気地じゃないか
 俺も行きたや仁吉のように
 義理と人情のこの世界
と、人生劇場の一番を歌います。二番を歌う前に、また前説があり、三番の前にもあります。結構、長いんですが、早慶戦に勝ったら、観客はこれを聞くのがお約束なんです。

 人生劇場の原作者の尾崎士郎が、早稲田に入学したのは大正5年ですが、その頃、すでに早稲田は学生運動のメッカでした。戦前の学生運動は、共産党がリーダーシップを持っていましたが、宮崎さんが入学した頃の早稲田は、各セクトが入り乱れての戦国時代でした。宮崎さんは初志を貫徹して共産党員になります。入学早々、法学部の常任委員に選出され、自治会の執行部のメンバーになります。宮崎さんが担当したのは、ビラ作りとオルグ。この頃は、蠟引きの原紙に鉄筆で字を刻み、その原紙を紙の上に載せて、一枚ずつ印刷していました。ガリ版と言ってました。今のコピーや印刷とは、較べものにならないほど、手間ヒマがかかりました。

 オルグは、「一般学生」をデモや集会に勧誘して参加させたり、見どころのある学生を、民青や共産党に引っ張り込む活動です。埼玉の新興宗教の会員に、スタバで、キャラメルマキアートを飲みながら、オルグを受けたと云う高1の女の子がいたみたいな話しを、最近聞きました。スタバ・キャラメルマキアート・オルグで、三題話しを作れと言われても、気の利いた話しの展開は、考えにくいです。60's半ばのオルグは、そこらのベンチとか、空き教室とかで。相手が興味を示した場合、下宿を訪ね、さらに口説き立てます。当時の大半の早稲田の下宿生が住んでいたのは、風呂なし・共同トイレ・三畳or四畳半のアパートです。テレビ、冷蔵庫なし。電化製品は、天井の裸電球、湯沸かしポット、安物のラジオくらい。入学早々、法社会学の授業で教授が「君たち、勘違いしてはいけないぞ。早稲田の法学部の学生は、将来、労働者になり、労働者で終わる人間だ。東大の法学部の連中とは違うんだ。だから、自らの問題として、労働法をしっかりと学べ」と、身も蓋もないことを言ったそうです。宮崎さんがオルグをしていた学生が「あの教授もいってくれるよな。しかし、あれは正しいと思う。だから労働者のことを勉強してみようと思ってるんだ。宮崎のいうマルクスというのが、労働者問題の権威なんだろう?」と、言ったそうです。

 早稲田の法学部を出て、司法試験に合格し、法曹界に行く人もいますし、霞ヶ関の役人になったり(早稲田卒では、出世はできませんが)企業のエグゼクティブに成り上がったりする人もいますが、まあ、10分の9は、労働者(ホワイトカラーも純然たる労働者です)になります。

 音楽関係の慶応OBの方から、「SFC(慶応藤沢キャンパス)は、ごくひとにぎりのITのエリートを生み出すために創設した」と、聞いたことがあります。あっ、やっぱりそうなんだと納得しました。日本画の平山郁夫さんが、東京芸大に入学した時、学長だったか、学部長だったか、入学式の挨拶で、「この中で、本物になれるのは、たった一人だけだ。そのたった一人だけのためにこの学校は存在する」と、ぶちかましたそうです。そうかもしれませんが、それを言っちゃおしまいって気もします。が、ごく一握りの才能のあるエリートと、その他の大勢と云う構図は、いつの時代であっても同じです。

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