自#354「ケインズやマルクスのような敷居の高い本を読むためには、一緒に読む仲間が必要です。共に学ぶ仲間に出会うための大学時代です。リモート授業ばかりで、楽をしている大学は、役目を果たしてないと言えます。『小、中、高で、普通にやれてることを、何故、大学はやれないんですか?』と、多くの人は、きっと思っている筈です」

         「たかやん自由ノート354」

 橋爪大三郎さんがお書きになった「人間にとって教養とはなにか」というタイトルの新書を読みました。人文系学問が軽視され、教養が身につきにくくなっている昨今の状況を憂慮して、この本をお書きになったんだろうと想像しています。

 教養を身につけるための、ベーシックなメソッドは、本を読むことです。橋爪さんは、たとえば経済関係の必読書として、三冊挙げています。サムエルソンの「経済学」、ケインズの「雇用・利子および貨幣の一般理論」、マルクスの「資本論」です。普通の人が、この三つを全部、読破することは無理です。サムエルソンとケインズは、何とか力業(ちからわざ)で読んだとしても、資本論は、一緒に学習する仲間がいないと、途中で挫折します。

 私は、大学1年生の時、サムエルソンの「経済学」(上下)を、早稲田の古書肆で買いました。私が大学生の頃(70's)経済学を学ぶためには、サムエルソンは必須だと言われていました。が、難しくて内容が理解できず、上巻の三分の一くらいまで読んだとこで、挫折しました。微分積分が理解できてないと、経済学のベーシックなテキストは読めません。高校時代に文系だった私は、微積を学習してません。高校の数学を学び、経済数学を履修すれば、サムエルソンを読むことはできたと思います。刑務所に放り込まれるか、結核病棟で療養するか、あるいは、経済学をともに学ぶ良き学友に恵まれていたら、数学も学び、経済学もマスターできていたのかもしれませんが、不幸なことにと言うべきか、嫌やはり幸いなことだったと思いますが、そういう状況には陥らず、四国の田舎から上京して来た田舎者は、花の都大東京で、マジソンバッグを持って、日々、サークル、バイト、映画、ジャズ喫茶、飲み会、雑誌の乱読、などなど、レジャーランドの中で、ぷわぷわした生活を送っていました。中高時代は、勉強することが仕事です。そういう時期に、微積のようなベーシックな基礎は学んでおくべきです。

 そもそも、高校時代に文系、理系と分けていることが、問題だと、後の祭りの今となっては、しみじみ思います。文系or理系を選択した時点で、人生の可能性の半分は、消えてしまいます。文系、理系を選択するのは、一般的な公立高校の場合、高1の11月頃です。15、6歳の秋、人生の選択肢の半分が消滅するシステムは、早急に是正する必要があります。

 会社に入って、OJT(オフィスジョブトレーニング)で、新入社員を育てる余力は、もう今の日本の企業にはありません。企業は即戦力の完成品を求めています。即戦力として働ける人間になるためには、大学院に進んで、少なくともマスター論文くらいは書いていて、できればドクターコースに進学して、専門知識と、幅広い教養を身につけていることが、要求されている時代です。大学院出のドクターは、使いにくいなどと言っている会社は、もうグローバルスタンダードとは、相当かけ離れた、アンシャンレジームの終わっている組織だと推定できます。大学院修了が当たり前になれば、大学の学部段階では、アメリカのように文理をともに学び、大学院から文系、理系に分かれるという方向に、今後は、進んで行く筈です。

 マルクスの資本論を全巻読んだ人には、私は、人生でたった一人しか出会ってません。最初に勤めた学校の政経の先生です。法政大学の御出身でした。大内兵衛先生が、総長だった頃、法政はマル経の牙城だと言われていました。慶応は、無論、近経(ケインズ)の牙城。で、早稲田は、どっちつかずで、ぷわぷわ。まあ、これは、私の個人的な印象です。私は20代の半ば、自治労の支部の青年部の書記長をしていました。本部の中執ですら、マルクスをきちんと読んでいる人はいませんでした。サムエルソンやケインズの経済学とはまた違った難しさが、資本論にはあります。

 内田樹さんと石川康宏さんが、共著で「若者よ、マルクスを読もう」というシリーズ本をお書きになっています。マルクスの代表的なテキストを、高校生にもわかるように噛み砕いて解説した本です。共産党宣言から始まって、10年かけてようやく資本論にまで辿りついています。高校生が、このマルクス入門書を実際に読むかどうかは判りません(少なくとも私が勤めた中堅都立高校の生徒は読んでません。麻布とか教育大付属駒場、渋幕といったあたりの受験校のいい意味での意識の高い高校生は、もしかしたら読んでいるのかもしれません)。が、韓国と中国で、このマルクス入門書は、翻訳されたそうです。韓国は判りますが、中国がこれを翻訳するって、「どうよ?」とはやっぱり思ってしまいます。この本は、中国共産党の中央規律委員会の推薦図書に指定されています。中国には、9200万人の共産党員がいます。共産党員の中にも、マルクスを読んだことのない人が、きっと沢山いて、入門書が必要になったということです。だったら、中国の知識人に入門書を書かせればいいじゃないかと思いますが、何故か、日本人の著者が高校生に向けて書いた尿門書を、アウトソースとして、ちゃっかり使う、うーん、中国って、やっぱり良く判らない国です。
「大学は早稲田の政経です。マルクスとケインズは、まあちょっとくらいは、かじりましたかね、へへへっ」みたいことは、一度も言ったことがありません。象の尻尾のとこをちょっと撫でて、それで象の全体象がつかめる筈はないです。それと同じで、ちょっとくらいかじっただけでは、1ミリも近づけません。

 自分にとって、ベーシックな基礎教養として、完全に身についた一冊を挙げろと言われたら、迷わず「罪と罰」を選びます。大学生のラスコーリニコフが、金貸しのばあさんと、その妹さんを殺す話です。ばあさんの方は、計画的、意図的に殺害します。妹さんの方は、たまたまそこにいたので、はずみで殺してしまいます。まあ、しかしどちらも、殺した時のラスコーリニコフの状態は、リアルではなくヴァーチャルなんです。首都ペテルブルクで、貧乏生活をしている内に、ラスコーリニコフは、リアルを失って、ヴァーチャルに陥っています。そのヴァーチャルな状態で、人を殺した後、リアルの人生が、再び動き出します。私には、自殺及び自殺同然で死んだ同級生が3人います。中2の冬に2人、高1の夏に1人死にました。この3人は、ヴァーチャルに閉じ込められて死んだと、私は思っています。リアルがきちんと始まっていれば、人はそう簡単に死んだりはせず、何とか生き抜いて行こうともがいた筈です。ところで、私が人を殺すとしたら、やはりヴァーチャルな時です。リアルでは絶対に殺しません。夢の中では、何人も殺しましたが(私自身も何回も殺されました)そっちはヴィーチャルなので問題なしです。実人生で、ヴァーチャルになるのは、ドラッグでトリップした時か、アルコールで酩酊した時です。ドラッグには、一度も手を出したことがありません。私が、アルコールを止めたのは、酔っぱらって、切れて、人を殺したら、取り返したがつかないことになると自戒したからです。健康のためにアルコールをやめたわけではありません。そもそも、私は健康オタクではありません(病院も薬もワクチンもサプリも、たいして信じてない人間が、健康オタクになれる筈がないです)。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?