ライク・ア・ヘル・エッジ・ロード(8)

 思えば、男性と同じ空間でこんなに長い時間を過ごすのは、初めてかもしれなかった。
 少なくとも、ブチ殺そうと考えずにいること自体が奇跡だ。アドにとっては、男性というだけで憎悪の対象。それが普通だった。

「昔──」

「う?」

「昔、好きな男の子がいた。同じ小学校の子で──今思えば、足が早かったとか……そんな程度のことでしかなかったんだけど」

 当時のアドには、その気持ちを示すだけの知恵が無かった。家に帰ればヤク中の母親が男を連れ込み、一緒にキメながらまぐわっているのが日常で、一月もすれば入れ替わる彼氏が、アドの目つきが気に入らないと殴った。

「ママの事は好きだった。コカインをヤッてない時のママは、時々アイスを買ってきてくれて、その日は夜更かしをしてもよくて──テレビを好きに見させてくれた」

 ママはよくタトゥーを見せてくれた。たまに名前は変わったけど、好きな男の名前を入れている、と言っていた。

『好きな人の名前は、身体に刻むの。その人への想いは消えないのよ』

 カッコいいと思った。
 今思えば、なんて狭い価値観だろうと思う。大人になって、雑誌やインターネットに触れられるようになった自分が見たら、冷ややかに否定したことだろう。
 だが当時のアドにとっては、それが世界のすべてだった。一月のうち数時間だけ、まるで贖罪のように自分に優しいママと、小学校だけが。
 やがてアドは小学校に通えなくなり、世界がひとつ失われた。
 悲しかった。優しいママとの時間は少なくなってきていた。痣も増えた。
 今思えば、それはままならぬ現実からの逃避だったのだろう。優しかったママの教え──好きな人の名前を刻む。
 刻めば、想いは消えない。
 タトゥーショップに入るのは初めてだったが、貯めたこづかいを使うのに躊躇は無かった。

「タトゥーショップの店長は──もう顔も覚えちゃいない。肌がキレイだって褒めてくれたのは覚えてる」

 店長は、キレイな色のドリンクを出してくれた。思えばそれがうかつだった。
 起きた時──自分の身体に、足の先から首まで、縦横無尽にトライバルのタトゥーが刻まれているとは思わなかったのだ。
 どこにも名前は無かった。入る余地もない。想いを刻むための身体には、アドにとって意味のない幾何学模様だけが刻まれてしまったのだ。
 あとは──断片的にしか覚えていない。
 タトゥーマシンの針を店長に突き刺して、レジを開けて金を奪い──街でイキっていた兄貴分から拳銃と弾をもらい、それで店長の頭をふっとばしたのだ。
 事件にはならなかった。
 組織のストライカー候補を探していたリクルーターが、アドを見初め、事件をもみ消してくれたのだ。
 ストライカーとして経験を積み、自分の稼ぎでカッコいい人が載っている雑誌や、そんな人が着ている服が自由に買えるようになった頃──風の噂でママが死んだ事を知った。

「悲しかった──と思う。正直よくわからない。わたしはあの日から怒りだけを刻んで生きてる」

「う……?」

「お前だって例外じゃない。ここから先、わたしをムカつかせたら殺す。わたしが言ったことも誰かに言ったら殺す」

 少年は首をぶんぶん横に振った。それがなんだかおかしくて、アドは笑い──少年もそれを見て小さな歯を見せて笑った。

「……こんな話したの、初めてだよ」

 オールドハイトの南部に広がる沿岸部──自然豊かな森、切り立った岩山──人の気配は少ない。キャンプやハンティングなどのアウトドアレジャーを楽しむ人々のピックアップトラックが目につく。
 それらを過ぎて、雑草の中をタイヤ痕だけ残した道なき道を行く。
 スマホのマップ機能は間違いなくこの先を指している。目的地は近い。
 その時だった。
 視界の外──右側の森の中を、カーキ色のジープが突っ込んで来たのだ。車体がひしゃげ、身体が浮き上がり、ガラスの破片が飛び──視界が真っ白になった。
 次の瞬間には、目の前の景色が逆転していた。車がひっくり返ったのだ。身体中が痛い。シートベルトが擦れ、メイド服が裂けてしまっていて、そこからブラと、忌々しいタトゥーが覗いていた。
 ベルトのバックルから仕込みナイフを抜いて、シートベルトを切り、なんとか外へ這い出す。車内に少年の姿はなかった。嫌な予感がした。

「よお、また会ったなァ?」

 嫌味な笑みを浮かべた、うんざりするほど顔の良い神父がこちらを見下ろしていた。

「てめえ」

 神父は黒いリボルバーの銃口をこちらに向けていた。

「おい、あんまり手こずらせてくれんなよォ。結局ここまで追いかけてきちまったじゃねえか。なあ、アリエッタ」

 後ろの離れたところに、シスターが立っていた。まるで新しい絨毯を買ったみたいに、小脇に少年を抱えている。ここからでは、生きているのか死んでいるのかもわからない。

「さてと……さんざ邪魔してくれたな? 見てのとおりガキは確保した。俺は人殺しはしねェが──お前は知り過ぎてる。ここなら死体を埋めるには困らねェ。安心しなァ、手厚く葬ってやるからよォ。……アリエッタ、殺れ」

 神父は後ろへ下がると、シスターが確保していた少年の首に腕を回し、そのこめかみにリボルバーを突きつけた。よく見るとぐったりはしているが、わずかに呻いている。死んではないようだ。
 シスターが草を踏みながら、こちらへ近づいてくる。身体中が痛い。お気に入りの服はズタボロだ。
 ふつふつと怒りが湧いてくる。なぜわたしだけがこんな目に遭う。なぜ。
 何が知り過ぎた、だ。わたしは知りたくてこんな仕事受けたんじゃない。お前らのせいで車は台無しで、お気に入りの服はズタボロで、挙げ句の果てに殺すときた。

「マイナス100点だ」

「あ?」

「ブッ殺すって言ってんだよ、お前ら……」

「イキがってんじゃねェや。アリエッタ、早く殺れ」

 シスターがアドの両肩をむんずと掴み、引っこ抜くように立たせた。まだ頭はふらついている。唇に金臭いものが触れる。また鼻血が出てしまった。
 十字架の意匠のついたブラスナックルを嵌めた拳を握り、こちらへ振りかぶるのが見える。
 アドは手に持っていたナイフをシスターの足に向かって投げた。彼女の靴を貫通したのが見えた。それに虚を突かれたのを見計らって、アドは力いっぱいシスターを殴り返した!
 かなりのダメージがあったようだった。当然だ。すでに足を銃で撃たれている。そのうえでのナイフだ。今までまともに立っていられた方がおかしかったのだ。
 シスターはたたらを踏み、それでもなんとか踏みとどまったが、立っていられず膝をついた。

「邪教徒ォ……!」

 ままならぬ身体に苛立つように、彼女はこちらをにらみつける。
 怒りが極まると、不思議と冷静になる。アドはブローニングを抜き、車の外に飛び出していたNukePurpleの箱からタバコを取り出して銜えた。

「うるさい、黙れ──そもそも神なんか信じちゃいないよ」

 ブローニングが火を吹いた。十発も銃弾をブチ込んでやると、シスターは呻き──そのまま前に倒れ込んで、動かなくなった。
 神父は錯乱したようにこちらに銃を向けたが、何も怖くはなかった。人殺しはしない、などと嘯くヘタレ野郎に用は無い。
 アドは彼に近づき、突きつけられた銃のバレルを握って押しのけ、そのまま神父の顔に頭突きをカマした。彼はもんどり打ってその場に鼻を抑えながら蠢いていたが、ブローニングの弾数発を近くの地面にブチ込んでやるとようやく大人しくなった。

「追ってこないよな?」

 アドは彼にそれだけ言った。神父はもう顔を上げる気力もないようだった。シスターの息がまだあるようだったが、銃弾はもう無い。トドメを刺すより、先を急ぐべきだ。

「……う」

 何がなんだかわからない、といった顔で、少年がアドの手を引っ張った。アドは鼻血を拭いながら、彼をジープに乗せて言った。

「……ほんと最悪だよ、この仕事は。服もダメになった」

 少年は迷わず着ていたモッズコートを脱ぎ、アドに突き出した。されるがまま羽織ると、存外丈が丁度良い。
 誰かからプレゼントをもらって嬉しかったのは、初めてだ。
 ミラーに映る胸元の忌々しいトライバルも、一緒に映るモッズコートが不快感を少なくしてくれた。
 目的地まであと少しだ。
 ジープのエンジンをスタートさせ、土や草を巻き上げながら──アドはチーズバーガーとの合流地点へと急いだ。

続く