オールド・レディ・ハンティング・ナイト


 薄暗い夜だった。

 タールのように波打つハドリア湾が、自分の心がそうであるように、穏やかな煌きを放っていた。向こう岸にはセントラル地区のタワー達が、眩いばかりの閃光を放っている。
 まるで宝石のようだ、と彼女は思った。
 全身が粟立つような不快感さえなければ、いつまでもこの光景に見とれていたかった。だが彼女には──ディアナと呼ばれるその女には、そんなごく普通の時間すらなかった。なぜなら仕事の最中だったからだ。
 枯れた麦のようなウェーブがかった金髪の先に、血がしたたっている。
 手首まできつく縛られた包帯、骨張った右手の先に、仕事を終えたオートマグが、その残り香を漂わせていた。はだけたドレスシャツの胸元はあばらが浮き、黒スーツの上着は裂けて、その場に落ちてしまっている。荒っぽい仕事になってしまった。
 ディアナは文字通りの飼い犬である。
 かつて時代遅れと言われながらも、『猟犬』としてならした殺し屋は、もう死んでしまったのだろう。ずっと聞いている歌のカセットテープとプレイヤーだけが、彼女に残されたものだった。イヤホンを耳に入れて、テープを聞けば、もやもやとしたこの気持ちも落ち着くはずだ。
『エクセレント。実に素晴らしい。SOHKSエージェントの中でも、君はやはり頭一つ抜けている』
 電子合成音声の雇い主──ヘルブラウ教授が歌に割り込んだ。SOHKS──Sons Of High Knowledge Society(高知識社会の子供達)なる、科学技術の独占を目論む秘密組織──の幹部。時代遅れのディアナを引き上げ、改造し、本物の猟犬にして飼い犬へ変えた者達だ。
『やはり、GRUはオールドハイトを出てはいないようだ。彼らはまだ、オールドハイト地下の秘密を未だ狙っている。即ち我々の知らない『永遠の方程式』を取り込みたいのだ。残念ながら、瓦礫の下に埋もれてしまった以上、条件は同じだが──地の利なら我々にある』
 ぐるる、と喉が鳴る。
 時代遅れで無くなるのなら、この身でかつてのように輝くことが出来るのなら。そう願って、ディアナはその身を実験という名の生贄に捧げた。どうせほとんど喋らないのだからと、声も捨てた。お陰でどこでもタバコ──紫色の細い紙巻きタバコ、NukePurple──を吸うことができる。飼い犬は楽だ。火を点けながらディアナは考える。思えば、彼女にとって人気の殺し屋という称号──オールドハイトのスターの一人という称号は、ただの枷でしかなかった。
 文字通りの紫煙が夜空へと登っていく。陸の先にある星の輝きが陰る。
 陰るくらいで丁度いい。中年女には目に毒だ。
「Я был там, убей меня!(いたぞ、殺せ!)」
 AKを抱えた黒服の男達が、こちらを見据えながら銃口を向けた。殺し損ねか、増援か。どうでもいい。猟犬はただ殺し切るのみ。
 ディアナは足に力を込めた。手にも同じように力が入り、手にしていたプレイヤーが砕け、テープが飛び出す。ストレッチ素材のスラックスが苦しげに膨張し、骨ばった素足に筋肉と獣のような硬い毛が生え、彼女の姿を空中へと運ぶ。
 今日はオートマグの調子がいい。紫煙が一条の線となって、夜空を──月を裂く。黒服のロシア人の頭が、オートマグから射出された44口径弾によって景気よく爆裂する。ロシア人は四人。一人、二人、三人。
 CLICK!
 弾が出ない。肝心な時にジャムるのは、オートマグの宿命だ。それでいい。ディアナはそうしたことを織り込んだ上で常に仕事に臨んでいた。昔は殺す人数を限定したが、飼い犬となってからは辞めた。
 なぜなら猟犬には、牙があり──爪もあるからだ。
 左手が足と同じように膨張し、毛が生え逆立つ。そして長い爪──。最後に残った男はそれを見た。猟犬ディアナの真の姿──左手が異形の獣と化した、その姿を!
 狂乱し、AKMのトリガーを引く。しかし全てが無駄だった。猟犬は霧の街に揺蕩う化物であり、銃で捉えられる人間ではなくなっていた。
 ルールを重んじた『時代遅れ』は、ルール無用の怪物と化したのだ。
 彼女は夜空に雲散霧消した。消えたのだ。紫煙を残して、どこにもいなくなった。
 数秒後、男のAKMは真ん中から切り裂かれ、ただのガラクタと化していた。地面に転がる銃だったもの。男はそれを絶望しながら見下ろしていて、恐る恐る見上げた。それをした化物を──猟犬ディアナの姿を!
 Grrr──唸り声が空気を震わせる。その姿、その顔──瞳孔は金色、一つの瞳に三つの瞳孔がぐるぐると回転し、口元がまるで狼のように裂け、不揃いの乱杭歯の中に人の歯が混じり、唾液の中で蠢いていた。
 叫び声をあげる間もなく、男は頭を失った。砕けた頭蓋を吐き出すと、いつの間にかディアナは人間へと戻っていた。
 面白くも無さそうに口元の血を拭うと、彼女は愛車のカマロへ向かった。お気に入りの歌が聞きたかった。突然の変身でテープやプレイヤーを壊しても、車ならその心配は無いからだ。
 何本目かのテープを、車載プレイヤーに押し込む。そうだ。全てが終わった。歌がそう言い、ディアナもまたそう反芻する。
 そして、続ける。それでも泣いてはいけない。
 だが、涙さえも失った怪物には、すべてが終わった後どうすれば良いのか?
 ディアナは喉を鳴らした。相変わらず、オールドハイトのタワー群は、眩い光を放っている。
 サイドミラーには、口元が赤く染まった──疲れた女の顔が写り込んでいた──。