【詩誌評】「うい!―10代だけの創作集―」のこと

わたしは、もの書きであると同時に教員でもあるので、これまで、それこそ数え切れないほどの生徒や学生の文学作品を読み、感想を述べてきた。ところが、かねてより交流のある詩人・エキノコックスさんから「「うい!―10代だけの創作集」をご恵投いただいたとき、少なからずわたしは狼狽した。そして、身の引き締まる思いがした。これはヤバいぞ、と思った。

それはつまりこういうことである。生徒や学生の作品を読むときは、どうしても、わたしには教員の二文字がつきまとう。わたしは教育者としては若いひとは褒めて伸ばすことをモットーにしているので、自然と、その評価は好意的なものになる。しかし、この詩誌を手にしたとき、わたしは教員ではなく、ひとりの詩人、もの書きとしてそれを受け取ったのだった。まったく自分では意識せず、自然にわたしは詩人であった。たとえ「10代だけの創作集」と銘打ってあっても、若いひとたちがつくったものであっても、あくまでそこに書かれたものは、対等な者たちが書いたそれであった。そのような経験をはじめてさせていただいたことに、まずは御礼を申し上げたい。

さて、中身である。ここに集ったメンバーはみな、SNSを通じて知り合ったことは、藍原センシさんの編集前記(この文章がなかなかいいのである)に記されている。ところがどうだろう、この詩誌、これが見事に、ある一定のトーンに貫かれているのだ。それは、寄る辺のない「さみしさ」とでも言ったらいいだろうか。ふいにせつなくなって、誰かを抱きしめたくなるような、でもそれ以上は何もせずただじっとしているような、そういうさみしさ。以下、わたしの好きな作品のフレーズを抜き出してみる。

「床から三センチ浮いたところ、わたしの人生の隙間、終着点」(渋谷縷々子「燃ゆる生命達」)、「噛みつくことしか能がない海の/ささやかで鮮やかな血の交わりに/あらゆる謝罪の声が重なっていくのを見ます」(初月準「電波るマリオ」)、「街の街灯がぽつりぽつりと消えるように/今日も僕は箱を閉じる」(夏彩加玲奈「未完成の箱」)、「あの夏に消えていった無数の少年が/命を忘れたように長い影を見下ろしている」(藍原センシ「エピゴーネン」)、「まちがい、と、正解、の/まちがい、の方でしか見つけられない物事。」(エキノコックス「正解」)

末尾の、いくつかのエッセイもいい。エキノコックスさんの「ゆるすための方程式」、これは、祈りだ。「もっと怒っていい。もっと泣いていい。もっと笑っていい。詩を書けばいい。私はここにいてもいい。あなたもここにいてもいい」。自罰的な者だけが紡げる言葉というのが、この世にはあるのだ。とろ@しゅたっとば―んさんの飄々としたユーモア、まさに「じぇいけぇ組」三女にふさわしい。

わたしは、この「うい!―10代だけの創作集―」に集ったメンバーに、大人らしくあるいは年寄らしく、「お疲れさま」とか「がんばったね」などと、賢しらなことなんか言わない。言いたくない。それは彼、彼女たちに対する最大の侮辱である。だから、これをまだ読んでいないひとたちへ。居ても立っても居られないような、とにかく、何か、書きたくなりますよ。自分はこのままじゃヤバいと、焦りますよ。それを読んで、感じてください。


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