【断章】詩誌「アンリエット」のためのメモ
きのう、2024年9月28日、峯澤典子さんと髙塚謙太郎さんによる詩誌「アンリエット」が発売された。まだ、手に取っていない方もいらっしゃるだろうから、内容に深く入ることは差し控えておく。というか、一日中読んだぐらいでは、この詩誌のことは書き尽くせない。ただ、わたしは、その感動だけ、ここに記録しておきたい。
いままでこのnoteでは書いたことがないが、わたしは峯澤典子さんの詩の大ファンである。それどころか、はじめて読んだときから(『あのとき冬の子どもたち』だった)このひとの世界を一瞬たりとも絶対に見逃すまいとこころに定めて、何度もその詩をくり返し読んでいる。Xではたびたびつぶやいているけれど、はっきり言おう、わたしの現在の最大の目標は、峯澤典子論を書くことなのだ。しかしわたしは、2023年3月に発行された「hiver」の頃は、詩に明るくなかった。だから、峯澤さんの第一詩集『水版画』さえ手に入れているというのに、「hiver」を持っていないというのは、痛恨の極みであった。それが、5冊だけ、「アンリエット」とともに七月堂で発売されるというではないか。このときの喜びを、何と言ったらよいのだろう。
結果、土曜日、開店前から並んで、わたしは、「アンリエット」と「hiver」を手に入れることができた。他の詩集を手に取る余裕はなぞなかった。はやく読みたかった。慄くような思いでページを開いた。まず、詩集で感じるのとはまた違った、編集の責任を背負う峯澤さんの心意気みたいなものを感じた。圧倒された。わたしは、いつしか涙を流していた。ここでは「アンリエット」のことだけ書いておくけれど、髙塚謙太郎さんの詩も、論考も、わたしは大好きで、とくに論考は、ひそかに目標にしている。いつか、わたしの、『詩については、人は沈黙しなければならない』を書くのが夢だ。
「アンリエット」は、まるで往復書簡集のような詩誌である。それでいて、水のように、空気のように、雪のように、交わりながら、しかも決して交わらない、お二人の個性が余すところなく発揮されている。いや、相乗効果で、これまでには見られなかった互いの面が引き出されている、と言えようか。清潔である。潔癖でさえある。これが詩誌なのか。まさに、「湖底に映されるシネマのように」である。装丁も、いつもながら本当にすばらしい。
峯澤典子さんの詩をめぐるいくつかのキーワード(わたしが勝手に考えているだけであるが)が、ここにも、展開されていたのがうれしかった。むしろ進化していた。これはあくまでもメモである。しかしこれだけは書いておく。詩を書くには、全身でいのちを研ぎ澄ませなければならない。意識、無意識とに関わらず。おかしな喩えだが、自分自身と細胞のレベルまで向き合って言葉を選んだら、このような詩ができるのではないか。それは肉体を通り抜けて骨にまで到達する。それは、雪の、白い色をしている。ひんやりと、だが確かに存在している、白。
最後に。興奮のあまり、好き勝手書いてしまったことをどうかお許しください。
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