【詩集評】『生と死のあわいに迷子 田中淳一詩集』

わたしは詩を書き始めてそれほど時間も経っていない浅学の者だが、いい詩集、というものについては、しばしば考える。それと同時に、読み手にとってのっぴきならない詩集、というものについても考える。田中淳一さんの詩集『生と死のあわいに迷子』は、間違いなくわたしにとって後者の詩集だった。わたしは、読みながら何度も、巻末に添えられた田中さんのプロフィールを確認した。一九五五年生まれとある。わたしは七五年の生まれであるから、そこには二十年の開きがある。それなのにわたしは、ここに収められた詩の数々が、自分の手によって書かれたものなのではないかと錯覚した。それほど、田中さんの詩は切実だった。たとえば、次の作品。

「僕が笑うと/母が笑った/僕が笑うと/友人が笑った/僕が笑うと/知らない大人も笑った」「声をあげて笑いながら/僕を殴った同級生/僕はうまく笑っていられただろうか/人懐っこい笑みを浮かべて近寄った女に/僕は給料袋から札を引き抜いて渡した/女はもっと笑顔をつくった」「僕は見ない/僕は上手に笑えなくなった/腹の底から笑えなくなった/ひきつった笑顔は笑顔ではない/割れた鏡のそれぞれに/ぎこちない笑顔の僕たちがうつっていた」(「笑った」)

この詩集に収められた田中さんの詩は、ときに恐ろしいまでに、生を憎悪し、生を否定する。「反出生主義にとらわれて」など、その最たるものだろう。だが、果して、それらの詩は、本当に生を憎み、拒み、否定しているのだろうか?田中さんの詩は、どん底に堕ちきることで、救いの呻き声をあげているように思う。逆説的に言えば、どん底に堕ちたものしか、本当の意味で救われることはないのだから。

そう、それは坂口安吾が「文学のふるさと」で言ったようなことである。「生存の孤独とか、我々のふるさとというものは、このようにむごたらしく、救いのないものでありましょうか。私は、いかにも、そのように、むごたらしく、救いのないものだと思います。この暗黒の孤独には、どうしても救いがない。我々の現身は、道に迷えば、救いの家を予期して歩くことができる。けれども、この孤独は、いつも曠野を迷うだけで、救いの家を予期すらもできない。そうして、最後に、むごたらしいこと、救いがないということ、それだけが、唯一の救いなのであります。モラルがないということ自体がモラルであると同じように、救いがないということ自体が救いであります」。

『生と死のあわいに迷子』は、祈りの書である(こんな風に書いたら、田中さんはお怒りになるかもしれないけれど)。しかし、詩は、詩集は、本来、このようなものではないのか。死をもたらすような自己破壊の表現があってこそ、人は、そろそろと、迷いながらも、生に向って歩みはじめることが可能になる。この詩集の最後に置かれた詩は、「更生」という詩である。「さまよいだどりついた異国の地で/ぼくは笑顔を取り戻していた」とある。ぜひ、若い人たちに読んで欲しい詩集だ。最後に、わたしのとくに好きな「花よ咲け」の一節を記して、この拙い詩集評を終えよう。

「置かれた場所に花は咲かない/逃げて/逃げて/逃げて たどりつけ/己の花の咲くところ/運がよければ花は咲く」


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