【詩集評】吉川彩子『浅き眠りは地上に満ちて』
いい詩集とは何か。いい詩とは何か。最近、そんなことをよく考える。もちろん、わたしの詩歴が浅いからなのだが、しばしの間考えたのち、とどのつまりは、結局、何と言われようと、何が流行っていようと、惑わされず、書き手が、己の信じたものをひたすら書いているものが、いい詩集であり、いい詩なのだ、というところに落ち着く。上っ面だけ真似てみても、すぐ、化けの皮は剥がれる。それなら、とことん、自分を掘り下げた方がよいのだ。
詩ではないが、坂口安吾が小林秀雄について、かつてこのように書いていた。「彼の文章の字面からくる迫真力というものは、やっぱり私の心眼を狂わせる力があって、それは要するに、彼の文章を彼自身がそう思いこんでいるということ、そして当人が思いこむということがその文学をして実在せしめる根柢的な力だということを彼が信条とし、信条通りに会得したせいではないかと私は思う」(「教祖の文学」)。
わたしは、吉川彩子さんの詩集『浅き眠りは地上に満ちて』を読んで、上に書いたような感動を覚えずにはいられなかった。吉川さんの詩は、もちろん、教祖らしさなど微塵もないのだが、そこにはたしかに、己の信じたものを書き続けて来たひとにしかない、確固たる世界がある。格好つけることもしない。しかし、読めば読むほど、胸に滲み入って来る。ささくれ立ったこころが癒されていく。不思議である。このひとには、自分をよく見せようとか、他人を驚かせてやろうとかいう邪な気持ちが微塵もないのだ。とくにわたしの好きな詩は、「朝」「窓際の雪」「夏を振り切る」などである。
「いつのまにか三人称で話している/ここにはわたしとあなたしかいないのに/伏線を回収するたびに/言葉が行き違いつづけて/まるで失望の落雷/別れは惜しまない/欺瞞として過去は眠っていて/確かに受け取りましたと/すんなり送ってくれない」(「朝」)
「いくつかの駅を過ぎて目を覚ます/閉じた遊園地の観覧車が闇に溶けている/もうこの駅に降りることはないのだろう/平行に走る国道は工事で車線が塞がり 連なるテールランプの群れ/もうこの道を走ることもない/たいせつな記憶だけは上書きされないと思うだけで/あんなにつらかったことも癒される気がする/終着駅まであと少し/架線の上にもまた雪が流れている」(「窓際の雪」)
「星食を孕んだ角度が夏を振り切る/忘れかけたころ ひとすじの轍のようであって/遥かな空の続きであったような/伸び縮みする永遠/静脈からそっと浸み出して世界をうかがっている水/つながろうとすれば直感から遠ざかり/未遂に誘うまどろみが蛇口を塞いでしまう/なまあたたかい記憶として/夜の半分は始まることはなかった」(「夏を振り切る」)
しみじみと、いい詩集である。そして、なぜだろう、どこか懐かしいのだ。きわめて個人的な体験が書かれているようでありながら、そこには、誰にも通じる普遍性がある。最初、この方は同世代なのだろうかとも思ったが、わたしは、吉川彩子さんの年齢を知らない。知らなくともよいのだ。この懐かしさは、何と言ったらよいのか、何度も傷ついて来たひとだけが持つ優しさに由来していると思う。少なくともわたしはそう信じている。
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