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渡米44日目 僕がいるべき場所はここかもしれない!?

朝8時前に子ども達を学校へ見送り、その足で大学へ向かった。木曜日は普段、授業がないのだが、今日は10時からあるクラスに特別に見学させてもらえることになり、なんだか少しでも浮き足だった気持ちで大学へと向かった。

8時半過ぎに、授業が行われるパラマウントシアターの4階につくと、授業の開始までまだ時間があるので、これまでに訪れたことがなかった4階のフロアー歩いてみた。なんとピアノがある部屋があり、僕は旧知の友に会えたように嬉しくなって鍵盤に触れ、溜まったブログを更新しながら、10時の授業開始を待った。

特別参加を許可されたのは「Cinematograpy(映画撮影術)」のクラスだ。これまで30本の長編映画や「Mad Men」などの人気テレビシリーズで撮影監督を務めてきた教授のハーラン(Harlan Bosmajian)が教えているクラス。僕はこの秋学期に履修しようか最後の最後まで悩んだのだが、一つのセメスターに履修できるクラスの上限と他のクラスとの兼ね合いで、この学期の履修を見送ったのだった。同級生のツシャーとこの間映画祭で会った際に彼も同じことを考えていて、ハーラン教授に特別許可を得てクラスを見学したという話を聞いた矢先に、その翌日、たまたま廊下で彼に会い、僕も今回の特別許可を得るに至ったのだった。

10分前に授業が行われるサウンドスタジオに行くと、すでに多くの生徒が集まっていた。普段の座学中心のクラスとは異なり、このクラスでは実際に授業の中で撮影が行われる。この日は、NYU映画学部時代のハーランの友人の撮影監督もビジターとして特別講義に訪れていた。授業の前半は、ジム・ジャームッシュウッディ・アレンの映画を分析しながら、いかに効果的に「マスターショット」となるワンカットを撮るかの講義が続いた。「マスターショット」とは、一つのシーンで、基本となる位置から撮影されたショットのことだ。

授業の後半は、実際にあるワンシーンを実際にプロの女優を使って、それぞれの生徒がカメラ、フォーカス、照明、小道具などの役割を分担しながら、あるワンシーンを撮影する。カメラの色温度やピントを調整し、役者の動きとカメラの動きを確認して、何度もリハーサルが行われる。

これまで僕がいたドキュメンタリーの世界では、自分自身がカメラもディレクターも担当し、極めて少人数で撮影するのが主流だ。それに対し、10人以上のチームでコラボレーションしながらワンシーンワンシーンを作り上げていく映画撮影の世界は、これまでドキュメンタリーの世界で培ってきた撮影経験とはまた別世界のものでとても刺激的だった。

撮影現場で使われる専門用語があり、その一つ一つがわかると「ああ、それのことね!」と謎が溶けていくような瞬間が何度かあり、やはりこういうプラクティカル=実践的な環境に身を置かないと、なかなか現場で監督として使い物にはならないのではないかと感じた。授業の終了時間が終わってもまだ撮影は終わらず、黙々と撮影に挑むクラスメイト達の真剣な姿に僕も静かに胸が熱くなるのを感じていた。これこそが僕がいるべき場所だと感じた。

「仲間といかにコラボレートして、ワンカットを作り上げていくか。その様を間近に見ることができて、今日はとても勉強になりました。僕は16年間、カメラマン・ディレクターとしてドキュメンタリーの世界に関わってきましたが、映画の撮影ややはり全くの別世界だと感じました」


授業後、ハーランに今日の授業に特別に参加させてもらったことにお礼の気持ちを伝えた。そして、大胆にもあるお願いをしてみることにした。それは毎週、特別にこの木曜日のクラスを聴講させてもらえないかということだった。春学期に履修することに決めているものの、この環境に少しでも早くから身を浸しておくことで、まるで門前の小僧が自然とその知識を身につけていくように、映画の撮影現場に少しでも早く馴染んでおきたいと思ったのだ。

「なるほど。では一つdeal(取引)をしましょう」
「取引ですか?僕にできることがあるなら喜んで」
「代わりに、このクラスの撮影モデルになるというのはどうですか?」

「それはとてもいい取引だね」と、隣にいたハーランの撮影監督の友人もいい、僕はぜひとお願いして来週からも授業に参加させてもらえることになった。映画を愛するもの同士、きっと何か通じ合うものがあるのかもしれない。僕はその寛大な配慮に感謝して、ハーランと固い握手を交わし、教室を後にした。


映画撮影クラスの見学を終えると、すぐに監督クラスの担当教授であるジュリアの元に出向いた。大学の教授は、オフィスアワーと呼ばれる面談の時間を設けていて、先週から14時半に予約をしていたのだ。

ジュリアは、こちらでの生活のことや目の病気の状況、今の仕事や大学を卒業した後の展開について気にかけてくれて、普段のクラスの中ではなかなか話せない個人的な状況を共有することができた。その上で、先週から懸念となっていた映画撮影にの課題について相談してみた。

「ほどんとのクラスメイトがMartha Marcy May Marleneを監督する中で、僕だけがPariahを監督するとなると、僕のディレクティングがうまくいったのか、他の生徒との比較ができないことを危惧しています」

「またPariahの主人公のAlikeやBinaが黒人の高校生で、その年齢層に見合った役者をSAG(俳優組合)を通じて見つけにくいであろうことも、せっかくSAGと連携して映画を撮る経験を積むいい経験だと感じていただけに、様々な可能性を狭めてしまうのではないかと危惧しています」

「僕が監督したいPariahのシーンにはキスシーンがあり、それは僕に撮って未知の領域で挑戦する意義があると感じているのですが、果たしてまだコロナも終息していない今、どれだけの俳優がこの課題のためにそこまでしてくれるのか、どこまでお願いしていいものか、そのあたりの温度感がわかりません」

気になっていた3つの懸念を伝えると、その一つ一つに対してジュリアは丁寧に彼女なりの考えを話してくれた。

一つ目の懸念に関しては、仮にPariahを監督していたとしてもMartha Marcy May Marleneの脚本にもいつでも立ち戻ることができるし、他のクラスメイトが今後のオーディションや撮影で監督としてどういう選択をしたのかを間近に見ることができる。これから映画をスイッチすると、またポートフォリオや脚本分析などのプロセスをゼロから始めなければならないし、そこまでの必要性があるとは思えないので、おすすめしない。

二つ目に関しては、AlikeとBinaの設定を黒人の高校生にこだわらなければならないわけではないし、人種や年齢層をフレキシブルに変えることで解決できる可能性が高い。逆に言えば、ボストンで実際の年齢や人種にこだわるとどれだけキャスティングの候補者を得られるか、その可能性を狭めることになりかねない。

3つ目に関しては、俳優たちはプロなので、ちゃんとオープンにお願いすれば、別にヌードになるわけではないし、キスシーンを演じてくれる俳優はいるはず。もし本当にそれが監督として難しければ、キスシーンがない翌朝のシーンを撮影するというオプションも視野に入れればいい。

ジュリアの話を聞いていて、全ての不安が払拭されたわけではなかったが、「やるしかないな」と感じた。そもそも、「海外で映画を撮る」ということ自体が僕にとって未知の領域で、いかにキャスティングを進めて、リハーサルをして、ワンシーンを撮影するか、どこにもこれまでの経験値を活かせる余地がない。今回の状況を困難に感じるのであれば、それは僕がそれだけ自分がこれまでにやった領域に踏み込もうとしている証拠であり、それだけ価値があるのだと思う。それを乗り越えることができれば、また一つ新たな自信にも繋がるだろう。

ジュリアと虚心坦懐に話ができて、Pariahのワンシーンの撮影に対して煮え切らない気持ちが100%解消されたわけではなかったが、やってみるしかないと感じた。

たとえうまくいかなかったとしても、その経験が詰めるだけいいではないか。何がうまくいかなかったのか、そこからまた学べばいい。必要なことは逃げないこと。リスケしないこと。自分のコンフォタブルゾーンを打ち破る旅を続けよう・・・。

夜は恒例となったエマーソン大学での映画祭Blight Lightsで環境問題を取り上げた4つの短編映画を鑑賞した。もはやトークセッションで手をあげてオーディエンスの前で質問をすることも全く苦にならなくなっている自分がいることに気づいた。

DAY20231005木1148-1205

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