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064 過去の駄文に見せかけて。

2018年にFacebookに投稿した内容を少しだけ書き直しました。

この投稿は、僕の地元である岡山に大きな台風がやってきて、友人たちの家を飲み込んだあと、復旧のお手伝いの中で感じたことを書き連ねた内容。


投稿から半年ほど経ったある日のこと、友人であり同僚であるA君から「実は子どもがお腹でなくなっちゃって、そんな時にこの記事を読んで元気づけられたんだよね」という話を聞かせてもらいました。

最後のまとめ、今じゃ書けないくらいまっすぐな言葉だけど、それなりに今も努力をしているつもりではいる。

「自分の持ちうるすべてを使って、身近な世界から幸せを広げていく。」

わっ、、、やっぱり文字にしたらダサいなぁ。

なんか意味なく「ちんちん」って書きたくなった。



***

中国の故事「塞翁が馬」に、ある村に住む占い師のお爺さんが出てくる。

ある日、飼っていた馬が逃げだしたことで村人が悲しんでいると、お爺さんは悲しむ村人に「これは幸いになるだろう」と不思議な言葉を伝えた。

村人は半信半疑に聞いていたが、数年後、逃げ出した馬は立派な駿馬となって戻ってきた。

村人はお爺さんの言った通り幸いになったと喜んでいたら、今度は「これは災いになる」とお爺さんが言い出した。

数ヶ月後、駿馬に乗っていた村人の息子が落馬し、足の骨を折った。

すると今度は「これは幸せになる」とお爺さん。

数ヶ月のち、戦が村を飲み込んだ時、若い男たちはみな戦に命を落としたが、骨を折ったことで徴兵されなかったは息子だけは助かることができた。

細かいところは覚えてないけど、だいたいそんなお話。

本来の意味は「幸せだと思うことが不幸になることもあり、不幸だと思うことが幸せになることもある。元凶は予測できないし、だからこそ喜んだり悲しんだりするべきじゃない」って話なんだけど、どこか僕にはしっくりこないところがある。

個人的には、「塞翁が馬」よりも「災い転じて福となす」の方が好き。
「どんな事があっても喜びを探そうぜ!」そんな感じがするから。

でも、今回台風がやってきて、悲しいことが続いた時、この「塞翁が馬」という故事が先に僕の脳裏に駆け巡った。

「悲しいことがあれば、その分嬉しいことがきっとあるから!」

そんな言葉を気持ち悪いとさへ思った。

悲しいものは悲しい。福がきたとしてもそれは悲しみが転じたものじゃない。

改めて「塞翁が馬」の話を自分なりに理解しようとした時、「馬を逃したのも人だし、馬から落ちて怪我をしたのも、戦争起こしたのも、結局は人が原因なんだよな」と思った。


災害という憂き目を受け止められない日々の中で、自分がやるべきは悲しみを受け止めることより、僕たち「人間」のあり方を考えることなのかもしれない。


環境破壊に温暖化、乱獲や資源の無駄遣い、戦争に家庭不和に道徳心の欠如・・・

なんだか色々ありすぎて、何を考えどう行動することが正しいのかわからないけど、まずは身近な世界から、自分ができうる精一杯の行動で喜びを広げていきたい。一人ひとりに丁寧に。ひとつひとつを丁寧に。


実際に災害の真っ只中で、この投稿に気持ちを害した人がいたらごめんなさい。


***


-もの-

百万一心の掛け軸


知っての通り、その後コロナ禍に入り、全世界に等しく不幸が訪れることになった頃、この言葉の持つ力が今の僕たちには必要なんじゃないかと、探して見つけた掛け軸。(ヤフオクで2,000円で落札)

百万一心(ひゃくまんいっしん)
百万一心とは、戦国時代の大名、毛利元就が吉田郡山城の普請の際に、人柱の代わりに使用した石碑に書かれていた言葉。
「百」の字の一画を省いて「一日」・「万」の字を書き崩して「一力」とすることで、縦書きで「一日一力一心」と読めるように書かれており、「日を同じうにし、力を同じうにし、心を同じうにする」ということから、国人が皆で力を合わせれば、何事も成し得ることを意味している。

wikipedia

なんとなく皆んなで力を合わせて乗り切れた気がするねぇ。

やほい!


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