すしの歴史~高須賀の美食入門~

私達が何気なく食べているお寿司ですが、その歴史を辿ると現在のような姿に落ち着くまで随分と色々な変遷があった事がわかります。ここではその流れを辿ってみましょう。

・すしのはじまり~乳酸系すし~

すしというと今では日本料理の代名詞の一つとしてあげられる事もありますが、すしの原型となった料理が生まれた場所は日本ではありません。紀元前4世紀頃、東南アジアのタイ・ビルマ国境近くの山間部地域でつくられたモノが原始のすしだといわれています。

フレッシュさが全面に押し出された現在のすしとは正反対に、原始のすしは保存食として誕生しました。食材が豊富で保存環境も整った現代とは違い、昔は一度とれた食物をどういう風に保存して貯蔵するかが非常に重要でした。海に近い場所では魚を塩漬けにする手法がよく採用されていましたが、山の奥にある地区では塩は貴重品であり、魚をそう簡単には塩漬けにできませんでした。

そのような文化背景の中で生まれたのが鮎・鮭・うなぎ等の魚に必要最小限の塩をあて、米飯と一緒に漬け込むという技術でした。こうする事で米のデンプンが細菌により分解されて乳酸が作られ、この乳酸が魚の腐敗を抑える事に役立ちました(ちなみに米はこの行程でドロドロの液体状になってしまい、食べられなくなってしまいます)現在の鮨とは似ても似つかないこの保存食が、すしの始祖にあたる食べ物だとされています(便宜上、こういったすしを乳酸系すしと定義します)。

・その後、すしは中国へわたる

そして次に、これが後漢の時代(西暦25~220年)に中国大陸に伝わり、すし文化は四川省・湖北省から山東省あたりに北上しました(ちなみにこの頃の日本はまだ弥生時代です)

その後、西暦530年ごろの南北時代に「斉民要術」という農政書が中央政府内で編纂されました。この本は主に農業の手法や食物の製造法などを各地に伝える為に作られたものなのですが、その中にすしの作り方も詳しく記されていたといいます。この本は当時の最先端技術が書かれていた本でもあった為、中国全土で広く読まれる事になりました。そしてその影響もあってかだんだんと中国全土ですしの作成技術が広がっていくこととなりました。

その後、南栄の時代(1127~1275)にはすしの製造技術は中国のほぼ全土で普及し、すしは中国で広く食べられるようになったといいます。使用される食材も魚に限られず、鳥(すずめ・がちょう)、獣(豚・うさぎ・羊)、野菜(竹の子)なども用いられていたようです。

ただここまで中国で普及していたすし文化も、明の時代(西暦1368年程度)になるとほとんど消滅してしまいます。すしという文化が根絶した理由としては、2つほどあげられています。一つは元々すしが外来の食べ物であったから中国になじまなかったという説。もう一つは支配者が漢民族から北方民族に変わったからという説。

はっきりとしたことはわかりませんが、恐らくこの2つが少しづつ影響してすしは中国で途絶えてしまったのでしょう。もし中国ですしが発展し続けていたら、どのような形になったのかは興味がつきないところではあります。

・すし、ついに日本に伝わる~熟れすしの誕生へ~

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