ルックバックを読んでのあれこれ

消化した上で思ったのは、これすんげぇ嫌な作品だなって事。


ルックバック - 藤本タツキ | 少年ジャンプ+ https://shonenjumpplus.com/episode/3269754496401369355


もはや僕が何かを言わずともインターネットで大絶賛されている本作品だけど、本作品の気持ち悪さに気がついている人はそんなに多くないんじゃないかなと思う。


以下、本作品について思った事をアレコレ書いていく。


タツキ的には消費者とは漫画に執着できない人達

まずこの作品は冒頭で「消費者とクリエイターって、全然違う人種ですよね」という事実を突きつけてくる。


この物語における消費者とは言うまでもなく冒頭に出てくる小学校のクラスメイトだ。彼らは漫画を読んで面白いと藤野の事を褒めそやすが、漫画自体には全然執着しない。


というか漫画なんて全然読んでないのだ。彼らにとっての漫画はファッションのように上手に着こなすものでしか無く、やがて卒業してゆくものでしかない。


そうして漫画に執着できない彼らは自然の成り行きとして漫画を卒業していく。彼らは良心から藤野に「オタクだと思われてキモがられるから漫画から卒業しろ」だとか「内申点にいい影響が出るから空手をやれば?」など推奨する。


これは紛れもなく良心からでた言葉だが、その言葉がでるという事は結局のところ誰一人として藤野の持つ才能には気がつけなかった(キチンと漫画を丹念に読み込んでいない)という事である。


タツキ氏が思う消費者とは、たぶん漫画に執着できない存在の事だ。ちゃんと漫画が読めてない人間といってもいいかもしれない。実はその現象はこのルックバックという漫画においても起きてる。自分のまわりでルックバックが公開された初日にあんなにも


「これは素晴らしい」


と大絶賛していた人達が次の日にまるで嵐が過ぎ去った後のように全く何もルックバックについて言及しなくなったが、あまりにも冒頭のシーンと似ていて僕は読んだ次の日になって色々な意味と恐ろしくなってしまった。


この様相をみて「ああ、作者が言いたかった事って、これなのか」と妙に納得してしまった。凡百の消費者にはどんなに凄い作品であろうが”漫画”は決して刺さらないのだ。


その棘は一日もたたずに抜け落ちてしまう。色々と仕込まれた考察成分でもって一時的に漫画に帰ってきてくれる事はあるけれど、彼・彼女らには絶対に作品は”刺さらない”。

<参考 藤本タツキ先生の読み切り「ルックバック」タイトルの意味やオマージュの考察 - Togetter>


消費者はたとえどんな名作を読もうが漫画をサクッと卒業してゆく。彼らは決してそれに執着しないし、一瞬だったら物凄く楽しめるけど、それを抱え込む事はない。


その他大勢な存在であるクラスメイトは藤野の作品を褒める。けど、決してそれに執着はしない。藤野の過去作品についてキチンと言及しているのが一般人よりも一段階上に位置する消費者である京本だけなのが何よりもその証拠である(本筋からずれるので詳細は書かないが、たぶんタツキ氏の思う一段上の消費者とはクリエイターの事だ。造り手は造り手にしか理解できないとでも言いたいのだろう。その解釈はわからなくもない)


つまり消費者が単なる消費者である最大の原理原則がこの漫画では最初にバシッと突きつけられているのである。そしてこれを読んだ多くの読者はその原理原則に則った行為を”恥ずかしげもなく”やらされてしまっている。


この喜劇みたいな現象が現実でも同じようになされているのをみて、僕はこう思わずにはいられなかった。


ああ、この作者、ほんと物凄く性格悪いな、と。


クリエイターは他人の作品を読んで簡単には面白がらない

一方でクリエイターである藤野の作品に対する向き合い方はこれらとは完璧に異なる。


藤野は初めて京本の作品を読んだ時、悔しくて悔しくて顔をしかめる。画力で思いっきり負けたのに加え、それまで評価してくれていたクラスメイトからの酷評まで喰らい、彼女は漫画にこれまで以上に執着する。


ここにクリエイターと消費者の違いが克明に表される。つまり作者の思うクリエイターというのは凄いと思った作品にぶち当たった時、圧倒されるのでもなく面白いというのでもなく、絶対に負けられないとより深く執着するものでしかない。決して”消費”するようなものではないのである。


つまりこの作品も含めて「凄い」とか「面白い」と一時的に消費した人の多くは、その時点で作者の想定する真のクリエイター像から既に転落している。


「ああ、結局あなたは凄い作品を目の前にしたら、それをサクッと消費できてしまう人間なんですね。私だったら悔しくて悔しくて、絶対に面白いだなんて言いませんし、悔しくて悔しくてムチャクチャに努力してもっと凄い作品書いてやりますけどね」


藤野のそういう声が聞こえてこないだろうか?聞こえてこないのなら、たぶんあなたは”そっち側”の人間ではない。


クリエイターの一番の特権は自分の作品を一番初めに読めるのが自分だという事

これは創作をやっていない人間は絶対に知る由もない事実だが、クリエイターにとって一番のファンは自分である。


自分が書いた作品を一番最初に読めるのは自分自身だ。この特権だけは何人たりとも奪うことができない。そしてその作品を最も楽しめるのも、実は他の誰でもない自分自身だけである。


この作品の登場人物である”藤”野と京”本”はいわずもがなで”藤””本”タツキを2つに割ったメタファー的存在だけど、藤野の喜びはほとんど全て自分の一番の理解者である京本が楽しんで自分の作品を読んでいる姿をみる部分にのみ現れている。


作品の構成的には一見するとバクマンのようにもみえるこの作品だけど、バクマンと恐らく明確に区別している点として他の作品・作者に関する情報がほぼ全く登場しないという事がある(あと中学生デビューもひっかけてるけど、本筋から外れるのでこれも述べない)


最初から最後までこの作品は藤野と京本の作品のみで、藤野と京本が作者本人のメタファーなのだとしたら…この作品は実は最初から最後まで文字通り”自画自賛”しかしていないのである。


つまり、とんでもなくナルシスティックな作品で、そんなナルシスティックな作品を読まされて読者は「これは凄い」と”言わされてる”のである。


この作品はアフタヌーン的だとか、女性主人公だとか、努力友情勝利でジャンプ的だとか、美しい友情の物語とクリエイターの業とか、そういう風にも読み解けなくはないのだけど、それでもそういう要素はしょせんデコレーションされた何かでしかない。根本にあるのは徹頭徹尾な自己愛である。


この作品を手放しでもって絶賛するという事は藤本タツキのナルシズムを無条件に褒めるという事と同義なのである。ああ、やっぱこの作者、すんげぇ性格悪い。


クリエイターは自作自演でもってフィクションを作る

この作品は自画自賛であり質のいいフィクション(嘘つき)である。実はこの物語がフィクション(嘘つき)ですよという事も作中にほんのりと仕込まれている。例の京本の四コマだ。


物語の終盤、突如としてパラレルワールドの存在が示され、そこで書かれた京本の漫画が現実世界に届くという感動の演出部分であるこの描写だけど、僕が思うにこれは藤野が作ったフィクション(嘘つき)だ。


なぜか?それは京本がストーリーと人物を描けない事が冒頭部分で何度も何度も強調されているからだ。あんなにも藤野の描く漫画に憧れていた彼女は、決して藤野のようなストーリーを劇中で描かない。


なんでわざわざそんな演出を仕込んでいるのかというと、たぶん京本はこの2つが”書けない”のだ。あんなにも画力があるにも関わらず、彼女はその性質としてそれが”書けない”ようになっている。ある種のそういう障害を持った存在が彼女なのである。


それが最後のシーンで突如その2つを使った4コマが出されてるのは…あれが実はパラレルワールド上の存在である京本の作品ではなく、藤野がやってのけた自作自演である何よりの証拠なんじゃないかと思う。


コンテンツクリエイターは自作自演でもってフィクションを作り出す存在だ。その嘘は空想の産物であり、時に現実よりもリアルになる。


その作ったキレイな嘘をまるで現実以上に美しく見せるのがコンテンツクリエイターの腕の見せ所であり、そのためにはクリエイターは真顔で嘘をつく(あの藤野がついた大嘘に感動してしまってる人にはショッキングな話かもしれないけれど)


ちゃんと読めばあれが相当におかしい事は”気がつけるように”作ってはあるのだけど、その上でやっぱり多くの人が”感動”してしまっているし、こういう風に「ちょっと変じゃね?」と書かれてもあれをキレイなシーンとして”読みたい”層は一定数はいるだろう。


クリエイターはナルシストで自画自賛をして自作自演でもって嘘をつく存在だ。そしてその嘘を一番楽しんでいるのも実はまた自分である。


ラスト付近で藤野が京野が楽しそうに漫画を読む姿をみてニコニコ笑っているシーンがあるが、あれは作家がどういう風にムチャクチャ大変である創作活動を楽しんでいるのかの暗喩である。


「読むだけでいいよね。描くもんじゃないよ。じゃあ藤野ちゃんはなんで描いてるの?」


そんなの、自分で嘘を作って自作自演して、自画自賛するのが一番楽しいからに決まってるじゃないか(このシーンにおける藤野の視線が全部京野を向いているのは、つまりそういう事だ)


そういう風に穿ってみないと、その心の奥底にある意図は読めない。そこまで読むのが作品の消費方法として正しいかどうかは置いといて、やっぱりこの作者は随分と性格が悪いなとは思う。


クリエイターは自己完結してしまっていいのか問題

まとめると、この作品は消費者とクリエイターが根本的に異なる存在であるという事を描いたものだ。


単なる消費者止まりの人にはコンテンツは刺さらないし、クリエイターは消費者とは全然別次元にコンテンツを消費しているんだよという圧倒的事実を暴露するという、強烈に皮肉の効いた作風となっている。


それ故に僕はこの作品が自分にイマイチ刺さらない。以下購読者向けにちょっとだけ加筆を行う(この作品への解釈はここでおしまい)


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