増上寺にて
東京都港区の増上寺に献花台が設けられたのは、安倍晋三元首相が撃たれた3日後の7月11日だった。
安倍元首相が銃撃されたニュースを見て以来、仕事をしつつも、どこかふわふわしたような手に付かない感触があったので、献花台が設けられたという情報をTwitterで知った時はすぐに行きたいと思った。
それを知ったのは16時過ぎだった。20時までに行けば献花できるということだったので、早めに仕事を切り上げ、18時頃に増上寺へ向かった。
献花台は永田町の自民党本部にも設置されているとは聞いていたが、そちらは行く気になれなかった。「一国の総理が暗殺されたのに、一政党の施設で哀悼の意を捧げるのか?」というような不満があったからという気がする。
一方、増上寺は徳川家の菩提寺であり、その由緒からなんとなく正当性を感じて行く気になったのである。
(もらった)花を献げる
増上寺に着いたのは18時半頃。正門前の日比谷通りは人も車もせわしなく行き交っている。薄暗くなっていたが、蒸し暑さは依然として残っており、マスクをしているのが不快だった。
献花台は正門から入るのではなく、増上寺と東京プリンスホテルの間の細道を通って行く流れになっていた。カラーコーンが置かれ、過剰と思えるほどの警察官が配置されていた。
細道からは東京タワーが大きく見えた。
献花台は、増上寺の正殿の横にある安国殿の前辺りに設置されていた。喪服を着たスタッフさんから、5列に並ぶように指示された。
並ぶ人の半数以上が自前で花を用意しているようだった。私は「花は用意しなくても良い」と聞いていたので用意しなったが、今更ながら「用意しておけば良かった」と恥ずかしくなり、後悔した。
しかし、それももう遅い。列は徐々に進んでいく。
近くの木々から蝉の声がした。今年初めてのことだった。
最前列あたりで菊の花を一輪ずつ配っている方がいて、それをいただいた。
献花台は、遺影が飾られたテントを中心に一列に伸びていた。遺影の周りだけライトで明るくなっており、弔問客が群がっている。
私は人だかりを避けて、献花台の端の方へ行き、いただいた菊の花を置き、遺影の方に向かって手を合わせた。
「終わりましたら、速やかに場所をお空けください」
遺影の前でゆっくり個人を偲ぶ時間はなかった。観音像の脇を抜け、元来た細道を引き返していった。
献花はあっけなく終わった。花を献げれば気が晴れるかと思ったが、全くそんなことはなかった。
久しぶりに増上寺に来たのだから正殿へお参りしていこうと思い、とぼとぼと向かうと、献花台を眺めるように佇んでいる人たちが何人もいた。
きっと、私と同じ気分なのだろう。流れ作業的に献花を終えて、満たされぬ思いを抱えているのだろう。
増上寺の正門を出て、浜松町の方へ向かった。
浜松町に住んでいた頃によく行っていた定食屋さんに足を運び、満たされない想いを反芻した。
一体、何が不満だったのか?
「献花があっけなさすぎたか?」「献花を自分で用意するべきだったか」とかいろいろ考えたが、自分の不満はどうもSNSから来ているのではないかと思った。
SNSは多種多様な人々が利用しているわけで、政治家の評価が一定になることは絶無である。
当然のことながら、今回の事件でも喧喧諤諤の議論がされていた。
それを否定することは決してない。
それが民主主義であり、言論の自由であり、多様性の時代というものだろう。
だが、政治家が民主主義の根幹たる選挙活動中に暗殺されて、なお罵倒を止めない人々にいい加減、辟易してしまった。
安倍元首相を批判しても良い。
政治家という権力者を揶揄することも良い。
自民党政治の瑕疵を論じても良い。
それでも一国の元首相が非業の死をとげた時くらいは、厳かに向き合うべきではないのか? 鬱屈とした感情があるなら沈黙で向き合えないのだろうか?
私の不満は、まさにそうしたSNSの在り方に原因があったのだ。
しかし、書いていて分かるが、この想いはナイーブに過ぎた。
元首相の死に対し、右は追悼の意を示し、左は沈黙でむかえるというような儀式ばった在り方をSNSに求めるのは不可能であり、不健全でもあるだろう。
そう考えると、「1人の政治家の死に厳かに向き合うべき」という私個人の意見が、SNSの多様性に対する耐性を押し下げたゆえの不満だったと言えるだろう。
これを書いている今となっては、それがよく分かる。SNSに厳粛さや気品を求めるなんて不毛なことは、普段は決してしないのだから。
ほしかった言葉
今回の安倍元首相の受難を受けて、私はnoteを書いてみようと思い立った。
自分の満たされない想いを振り返った時、他の人の言葉では満たされないことを痛感したからである。
静かに、自分の内面を振り返るような言葉を書こう。
田中泰延さんがおっしゃるように、自分が読みたくなるような文章を自分で書こう。
ほしかった言葉は自分の内にある。
そういうわけでどこまで続くか分からないが、これからnoteを書いていこうと思う。
さいごに
人の葬儀に出た時、故人の冥福をお祈りする一方で、人は自分の生き方を振り返らずにはいられない。
それはエゴイズムと言えるかもしれない。
だが、一方で、葬儀で自分の人生を振り返ることこそ、故人の人生に最も真摯に向き合うことと言えるのではないか。故人の人生が、他者の在り方に深く影響を与えていくのだから。
最後に、安倍元総理へ感謝と追悼を捧げて。
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