アレクサンドル・ポチョムキン『私』

アレクサンドル・ポチョムキン『私(ヤー)』コックリル浩子訳  2013年群像社

生まれてこない方がよかったと反出生主義がアクチュアルな問題として叫ばれる今、2004年にロシアで書かれたこの『私』という小説はこの世界は最悪で救いようがないし、人生は苦痛で溢れているという反出生主義的なネガティブな世界認識をドストエフスキー的な饒舌さをもってポジティブに反転させたとても躁的でパワフルな21世紀の地下室の手記と言っても過言ではない作品となっている。

この作品の主人公かつ語り手であるワシーリイ・カラマーノフは私たちが暮らす人間社会を根本から憎悪している。彼の父親は性犯罪を犯し銃殺刑を受け、そのために彼の母親はアヘン中毒となりカラマーノフは6歳で孤児となる。世間は彼を「忌々しいガキ」と呼び憎悪する。生活のために屠殺業やユダヤ人の家庭に出入りすることで一般的な世間からは見放され、彼に対する風当たりはより強くなるが、このようなことで新時代の反抗者はダウナーにはならない。反対に彼を憎悪する世間を馬鹿にしてより自分に憎悪が向くように行動するようになる。

徹底的な世間との対立行為の果てに彼は収容所に収監されることになるが、そこでカラマーノフは新たな思想に目覚める。かれはプチブリ(彼の生まれ故郷)人という現在のホモ・サピエンスより進化した上位のホモ・コスミカスとして人類を新たな段階に至らしめる存在であるとの確信を得る。彼にとって現在の人類とは暴力と欲情に溢れた不合理な卑しむべきものであり、プチブリ人たるカラマーノフはそれらにとって代わり理性的な新人類としてこの地球を支配するための行動を開始することを決意する。この決意にはかつて『カラマーゾフの兄弟』においてイワン・カラマーゾフの子供の涙がある世界では神による恩寵はいらない、そしてそのような世界ではすべてよしであるというニヒリズムの叫びを聞き取ることができるが、現代の反抗者であるカラマーノフはイワンのように神学的な闘争を試みるのではなく、地上において遺伝学的な進化とそれによって出現する地上の楽園を目指して行動するのである。

そう決意したカラマーノフは自分が滅ぼすべき人類の徹底的な研究の段階に入る。かれは清掃人として働く傍ら、図書館に入り浸り遺伝学や哲学を中心に人類の知の遺産である本を読み漁る。その行動様式は極限までストイックで労働して消費する資本主義的様式を真っ向から否定するものでもある。また現実の人間と接触することで、いかに現実が不合理で取るに足らないものかを証明していく。

そしてこの小説の最後はカラマーノフの頭の中で行われる彼の人類を理性により改良するという思想を罪とし、彼を被告とする裁判の場面で終了する。極限まで理性的であるというカラマーノフの態度は狂気からくるものだと言われるが、そこに答えは出されずに終わる。

私たちの今現在の世界は狂っている。そのような予感こそいまの反出生主義的な問いが生まれる土壌になっているのだと私自身は思う。そのような中で理性というホモ・サピエンスの特性を純化させることで世界の不条理を克服しようとする主人公カラマーノフは現代的なヒーローたりうる存在なのだろう。世界が理性的なら現実的な悪は姿を現さないかもしれない。しかし、一方でそんな理性的な世界はドストエフスキーの地下室の住人がいうように水晶宮であり2×2が5であると言いたくなってしまうこの非合理性にこそ人間性があるというも感覚的に理解してしまう。だからこそそんな世界に中指を突き立て否と叫ぶカラマーノフは私たちにとって必要なのかもしれない。そんな私たちを作者であるポチョムキンは突き放す。カラマーノフ君、君はいつまで理性的でいられるのかなと。


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