『僕には世界がふたつある』 ニール・シャスタマン

芸術の世界において狂気はある種の憧れを持って需要されているところはなきにしもあらずだと思う。こと文学においては芥川龍之介やアンナ・カヴァン、シャーリー・ジャクスンなど狂気がカリスマ性をもって輝いてしまうことはかなりある。内的な感情の吐露とそこに対する共感がある程度できるのが文学という形式であるが上記の作家には凄まじいビジョンにより圧倒的な他者性をもって狂気が作品に昇華されており「カッコいい狂気」として受け止められているところが多分にあると思う。
そのような中で今回取り上げる『僕には世界がふたつある』という作品は狂気を等身大のものとして扱い決してそれがカリスマを持つ人の才能ではなく「病」として日常性を持ちそこで直面する様々な感情にフォーカスを当てた作品になっている。
主人公のケイダンは隻眼の船長やおしゃべりなオウムと一緒にチャレンジャー海溝を目指して航海をする一方で高校生としての日常を過ごしている。日常を過ごす中でケイダンは被害妄想や奇妙な因果関係に囚われてしまう。最初はちょっとズレた子と思われただけだったのが実際にはそれが統合失調症であり治療のために入院することになってしまう。
本作の読みどころの一つとしてケイダンの症状が悪化していく内的な経験が丁寧に語られるところでしょう。普通なら気にしなくてもいいところに意味的な連関を読み取ってしまったり世界の全てが自分に牙を剥いていると感じてしまう意識の流れが具体的なイメージで描かれます。ここがこの作品の重要な部分でイメージの世界の幻想的な世界観は航海のシーンではみられるのですが、具体的な病気による苦しみは幻想的な味付けをせずにケイダンの意識をそのまま書き出そうとしているところに物語的な飛躍をさせずにありのままの症状を知って欲しいというルポルタージュ的な作品の意図があると思うからです。作者のあとがきによると作者の息子さんがこの様な病気になり寛解するまでを作品にしたことが書いてありますが、物語にしてしまうことで語られないことを極力廃するような繊細な配慮がされています。
しかしこの作品は実録もの的な味付けで終始しているかというとそうでもなく船の上でのスペクタクルなイメージやラストに訪れる内的な飛躍の場面では小説的な豊かなイメージに溢れていてそれも読みどころになっています。
また物語が進むにしたがって航海の場面と病棟での出来事の連関が見えてくることでよりケイダンのなかにある様々な世界の見え方がより重層的なものになっていきます。
物語の結びも治癒ではなく寛解であるということに焦点が当てられており物語の終わりに治ってはい終わりではなく終わることのない物語として読者である私たちに投げ返され精神の病に対して最後まで真摯な姿勢です。

この作品は自分や身近な人に精神に問題が起きてもそれをそれとして受け入れ各人がそれからどう生きていくのかを考える際に寄り添ってくれる指針になるような本なのではないかと思います。

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