『スウェーデンの騎士』について

 はじめましてタカシマアキラと申します。自分の読んだ本や映画の感想など書いていきたいと思っています。よろしくお願いします。

『スウェーデンの騎士』レオ・ペルッツ 垂野創一郎訳 2015年国書刊行会

 今回紹介する作品はレオ・ペルッツという作家の『スウェーデンの騎士』です。ペルッツは近年再評価が進んでいて、ここ日本でも幻想文学愛好家を中心に人気を集めていますが、まずは簡単な紹介から始めたいと思います。
 レオ・ペルッツは1882年にオーストリア=ハンガリー二重帝国下のプラハでユダヤ人の両親の長男として生まれます。「百塔の街」とも呼ばれることのあるプラハはその名の通り尖塔が多く美しい街なのですが、カトリック的文化とプロテスタント的文化、そして正教会的文化、ユダヤ的文化が重層的に組み込まれており、旧市街地の街角を歩くだけで幻想的な雰囲気を味わうことができます。これはあながち私の主観的感想ではなく、プラハという実在の都市を舞台にした幻想文学作品は多く、この街自体の醸し出す幻想性は共通の感覚と言えるかも知れません。ちなみにフランツ・カフカも1883年に同じくプラハで生まれています。
 ペルッツは18歳でウィーンに移住しそこで小説家としてデビューします。1915年の『第三の魔弾』を皮切りにヒット作を連発しますがナチスの台頭によりパレスチナへ亡命1957年に亡くなります。


 そんなペルッツですが、この『スウェーデンの騎士』は彼の作品の中でも最もストレートな血沸き肉踊る冒険小説と言えます。しかし、注意していただきたいのはストレートなとは言っても稀代のストーリーテラーであるペルッツですので誰のどのような物語であるかは一筋縄では行きません。


 まずは物語の大枠から話を進めて行きましょう。
物語の舞台は18世紀初頭、スウェーデンとロシアを中心とした北方同盟がバルト海沿岸の覇権を争った北方大戦争時代のシレジアです。皇帝軍を脱走しスウェーデン王カール10世の下へ馳せ参じようとするスウェーデン人貴族のクリスティアン・フォン・トルネフェルトと絞首刑から逃げている泥坊の二人が出会うところから始まります。この青年貴族は典型的なおのぼりさんでスウェーデン人としての義務、貴族としての名誉の為にと言いますが真冬の過酷な逃亡生活に根をあげそうになっています。反対に泥坊はそれまで厳しい現実と闘ってなんとか生き延びてきた男で今回の苦境にもめげません。そしてあることがきっかけで二人は身分を入れ替えることになります。青年貴族は僧正の荘園で働かせられる泥坊として、泥坊は自由人として現世に残り一目惚れした落ちぶれた女領主の為に生きようとするのです。

 ここまで書けばお分かりかと思いますが、この物語は『王子と乞食』的な入れ替わりものであると同時に泥坊が主役で世界と渡り合うピカレスクロマンなのです。それゆえか物語自体も虐げられている人々の側に善悪の基準があります。盗賊団を率いて世俗に塗れた教会から徹底的に盗みスウェーデンの騎士として身をあげる為の資金を集める主人公は神の裁きを受けた時、文無しの男が盗みを働くのは仕方がないと盗みの件では裁かれません。彼は盗人にも盗人なりの誇りがあるといいましたが、入れ替わる際にやむなくついた嘘が彼の最大の罪として裁かれるのです。この嘘は彼の行動原理である愛ゆえにつかれたものであり、結局は運命に敗れゆく男の悲哀が集約されています。


 四部構成のこの作品は一部で入れ替わるきっかけ。二部、三部で貴族になり代わった男の奮闘、四部で物語を締めるという構成になっています。それに加えてある人物が書いたという手記をもとにした序言があります。この序言がペルッツが稀代のストーリーテラーである所以でもあります。
 私の言うストーリーテラーというのはただ物語の話運びや描写が上手いということではなく、語られている物語が主人公一人に奉仕するものではなく、語られていない人物の物語としても機能する構造になっているということです。この作品においては序言が語られる視点とそれから語られる本文を語る視点が異なることにより主人公である男の話であるにも関わらず、その他の人物の物語としても読めるようになるのです。

 読んでいる最中はその連続活劇的な冒険譚に酔いしれるのですが、読み終わると同時にこれは主人公の男の話だけではないと気がつくのです。確かに入れ替わりの物語であるので青年貴族の物語が語られるのは当然のことかも知れませんが、その青年貴族の話は最小限しか語らないにも関わらずやはり二人の男の物語であり、それに加えて二人の女性の物語でもあるのです。また四部それぞれで主人公である男の名前が泥坊、教会瀆し、スウェーデンの騎士、名無しと物語の進行にあわせて変わっていくのも名前が変わることによって男の主観的な感情が変化していくのを感じられます。


 重層的な語り口というのはポストモダン的な現在の文学作品においてはよく見られる手法ですが、それを物語的な面白さを損なうことなくエンターテイメントとして昇華できている作品は多くありません。連続性を持つ物語としての面白さとは別口の語りの面白さであったり、表現形式を含めた小説として面白い作品は数限りないのですが、ハラハラドキドキさせる物語性を損なわずに語ることのできているペルッツは稀有な存在です。また1936年の作品であるのに古典的な風格を醸し出さずに前置きなく楽しめるというポップさこそ彼の作品の本質の一つと言っていいでしょうか。

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