ローマのバス・ヴァイオリン I 〜ボノンチーニ
はじめに
2024年9月7日、17世紀前半のローマを代表する作曲家/チェリスト「コスタンツィ/チェロ・ソナタ集」がコジマ録音より発売されました!👏👏👏👏👏👏
リリースに関するnoteはこちらです。
https://note.com/takashikaketa/n/na8e5db6d5bec
CD「コスタンツィ/チェロ・ソナタ集」発売!
ぜひ多くの方に聴いていただければと思います!
CD注文サイトのリンクはこちら。
懸田貴嗣/コスタンツィ チェロ・ソナタ集
こちらのnoteでも述べたように、コスタンツィはコレッリの次世代として18世紀前半ローマを代表する作曲家ですが、一般的に馴染み深いとはお世辞にも言い難いこともあり、その発売に際して、ローマや同時代の低音弦楽器であるバス・ヴァイオリン、チェロ、そしてそれに関わった作曲家、チェリストについてより知っていただく機会として、このnote記事を連続して書いていく予定です!
さまざまな低音弦楽器(バス・ヴァイオリン)の名前
17世紀以降、チェロと同じ音域(以下、8フィートと称します)の多様なヴァイオリン属低音弦楽器(以下、バス・ヴァイオリン)は、18世紀半ばにチェロに標準化していきます。
その歴史をたどる上で常に問題となるのは、楽器の呼称とその楽器がどのようなタイプであったかということ。
17世紀以降、8フィートのバス・ヴァイオリンを示すであろう楽器名をざっと挙げると以下の通り。
bassetto
bassetto di viola
basso da brazzo
basso di viola
basso viola da brazzo
viola
viola da braccio
violone
violone da brazzo
violonzono
violoncino
violoncello
violonzino
violonzello
violone piccolo
violone basso
とまだまだ出てきそう。
小さな差異を含めればもっとあるかもしれない、これらの楽器は果たしてそれぞれ全く異なるものであったのか、近いものであったのか、または同じものを別の名前で呼んでいたのでしょうか。
ローマにおけるヴィオローネとヴィオロンチェロ
そして、ローマの偉大な作曲家コレッリの作品1〜5では、低音パートにヴィオローネ "Violone"が、作品6のコンチェルティーノ・パートにチェロ "Violoncello"が楽器名で指示されています。果たしてそれらの楽器はどんな楽器だったのか?コレッリがいたローマにおいてヴィオローネとチェロは違う楽器なのか?という問いは、私たち古楽奏者の実践においては非常に重要な問題となります。一般にさまざまに理解、または誤解されている部分もあるかと思いますので、このあたりで一度整理してみようというのもこのnoteのモチベーションです。
バス・ヴァイオリンに関しては、1977,1978年のスティーブン・ボンタの重要な論文(注)からすでに50年近くたっているわけですが、それからいくつかの研究が続き、少しずつ分かってきたこともあります。
(と同時にいまだにわからないことも沢山ある)
(注)
Stephen Bonta,
‘From Violone to Violoncello: A Question of Strings?’,
Journal of the American Musical Instrument Society 3(1977)
‘Terminology for the Bass Violin in Seventeenth-Century Italy’,
Journal of the American Musical Instrument Society 4(1978)
ヴィオロンチェロ violoncello という呼称が初めて資料に現れるのは1665年ボローニャのサン・ペトロニオ教会のオルガニスト、G.C.アレスティのトリオ・ソナタ集作品4ですが、チェロのような8フィートのバス・ヴァイオリンがそれ以前に存在していなかったのかというと、もちろんそんなわけはありません。
ヴァイオリン属の低音弦楽器、ここでは便宜上バス・ヴァイオリンと呼びますが、16世紀初頭にイタリアですでにそれらしいものがあったことが分かっています。17世紀に入って大型または小型(大きく分類しているだけで、様々なモデル、サイズと調弦あり)のバス・ヴァイオリンが、17世紀半ば以降のモデナやボローニャのG.B.ヴィターリ、D.ガブリエッリらヴィオローネ/チェロ奏者とその作品によって、独奏楽器としても表舞台に出てくるようになったという話ははここでは省略。いずれそちらも詳しくnoteで書いておきたいと思っています。ここでは、モデナとボローニャがバス・ヴァイオリンの変遷において重要な都市であったという認識からスタートします。
まずはコレッリが青年期を過ごしたボローニャと、その後名声を築いたローマ、その二つの重要都市におけるバス・ヴァイオリン問題を関連付けるキーパーソン、
ジョヴァンニ・バッティスタ・ボノンチーニ
Giovanni Battista Bononcini(1670-1744)
について語りましょう。
父ジョヴァンニ・マリア Giovanni Maria(1642-1678)、弟アントニオ・マリア(1677-1726)と合わせて、3人のボノンチーニがいて、尚且つファーストネームが紛らわしい!この混乱した状況に対して、私は以前、ボノンチーニと言われたら、どのボノンチーニのこと?という意の「どのンチーニ?」と返すべき、と世間に向けて提案しましたが、全く流行りませんでした。というか、なかなかそのようなシチュエーションに巡り合わないいのです。それは、さておき。
参考文献
今回の主要な参考文献としてはこちら
Guido Olivieri, 2021, The early history of the cello in Naples: Giovanni Bononcini, Rocco Greco and Gaetano Francone in a forgotten Manuscript. collection Eighteenth-century music
Marc Vanscheeuwijck, 2020. The Violoncello of the Bononcini Brothers
I Bononcini da Modena all’Europa (1666–1747)
a cura di Marc Vanscheeuwijck, Libreria Musicale Italiana
Guido Olivieri, 2024. “String virtuosi in Eighteenth-century Naples”
Cambridge University Press.
ジョヴァンニ・ボノンチーニ ローマに行く
ヨーロッパ中を席巻した、かの有名な作曲家ジョヴァンニ・ボノンチーニもなにを隠そう、バス・ヴァイオリンと縁が深いモデナの出身。父も有名な作曲家であった彼はボローニャで10歳になる1680年(D.ガブリエッリがサン・ペトロニオ教会の楽団に参加し始めた年)からチェロをG.ブオーニという教師に、対位法をG.P.コロンナ(サン・ペトロニオ教会楽長)に学んでいて、両方ともに大変優秀な生徒だったとのこと。
ボノンチーニは弱冠15歳でボローニャの名誉あるアカデミア・フィラルモニカの会員に選ばれ、サン・ペトロニオ教会ほか重要なポジションで仕事をし(チェロのほかヴァイオリン・歌もよくできた(注)という)、宗教曲や数々の器楽曲集を10代のうちに出版しています。
(注) 歌も器楽も、どの弦楽器でも歌のパートでも、教会の仕事では何でもこなす “per cantare o per suonare, avendo abilità per qual si voglia instromento da arco, come pure di cantare in molte parti necessarie al sevizio di detta chiesa”という無双。
1691年にはフィリッポ&ロレンツァ・コロンナ夫妻に仕えて、ローマへと移ります。夫妻の庇護の元で、詩人、台本作家でもあったスタンピーリアとの共同作業が開始、2人はオペラやセレナータの大ヒット作を生み出すコンビとなります。初期の作品の中で最も成功したのは、1696年12月27日にナポリのサン・バルトロメオ劇場で初演された『ヴォルシ家のカミッラ王妃の勝利』(Il trionfo di Camilla regina dei Volsci)。 このオペラは、ロレンツァ・コロンナの兄であるメディナチェリ公ルイス・フランシスコ・デ・ラ・セルダが、スペインの新しいナポリ総督に任命されたことを祝して上演されたもの。「カミッラ」はすぐにヨーロッパ中で大成功を収め、1698年から1719年にかけてイタリアの都市で23回、1706年から1728年にかけてロンドンで3回上演され、ボノンチーニが後に国際的なキャリアを築くきっかけとなったものでした。
『ガゼッタ・ディ・ナポリ(Gazzetta di Napoli)』紙に掲載された記事は、この驚異的な成功を記録していますが、ボノンチーニのバス・ヴァイオリン奏者としての名声がオペラ作曲家としてのそれよりも先にあったことも示しています。
ボノンチーニがナポリに滞在していたという記録上の証拠はないのですが、メディナセリ公のために開催された祝宴に作曲家が出席し、慣例に従って『カミッラ』の初リハーサルと公演を監督した可能性は十分にあるようです。実際、その1年前にボノンチーニがナポリ王立礼拝堂の指揮者をスカルラッティから引き継ぐという発表もなされていました。
しかし残念ながら、最終的にこの話は実現せず。
実はボノンチーニがナポリに滞在していたかもしれないと示唆する資料が一つあります。それは、モンテカッシーノ修道院 L'abbazia di Montecassino に残された、チェロまたはヴィオラ(この場合はもちろんバス・ヴァイオリン。現代で言うところのヴィオラは、ナポリでは多くの場合ヴィオレッタ Violetta)のための作品の手稿譜です。そこには、ナポリの作曲家ロッコ・グレコとガエタノ・フランコーネの作品とともに、ジョヴァンニ・ボノンチーニの2曲のシンフォニアの手稿譜が含まれており、ナポリに非常に強い関係性を持ったものです。
Giovanni Bononcini / Two Sinfonie per violoncello e basso continuo
リンクからダウンロードできます。
後年ミシェル・コレット(1741)の教則本でも「チェロを考案した」と言及され、作曲家としてもヨーロッパ中で名声を誇ったG. ボノンチーニのチェロのための作品の可能性があるのはこれまで、
「ボノンチーニと他の有名な作曲家による」
Sig.Bononcini and other eminent Authors
という寄せ集めの曲集に含まれる、ただ1曲のみでした。
本人死後1748年のロンドン出版。しかもそれもファミリーネームしか書かれてないので、それが父ボノンチーニなのか、もしくは弟アントニオ・マリアのものなのかもわからない。作者不詳。そして最終楽章はルクレールのヴァイオリンのためのソナタのミュゼットと非常によく似ています。どちらがオリジナルなのでしょうか。もしくはどちらにも何か元ネタがあるとか。
声楽作品におけるチェロ・オブリガート、ボローニャ時代の器楽作品からジョヴァンニ・ボノンチーニのチェリストとして語法、演奏技法は少々垣間見えていたものの、肝心のチェロ作品がなぜ残ってないのだろうか、とこれまで残念に思われていました。しかし、このモンテカッシーノ手稿からシンフォニア2曲もの真作が表に出てきたことで、ボノンチーニのチェロのテクニック、語法を窺い知ることができるのです。しかもそれらは、1689年と記された手稿譜に残るガブリエッリやその弟子ヤッキーニの様式の影響はあるものの、よりギャラントで先進的なものです。この作品がナポリに持ち込まれたのがオペラ「カミッラ」の上演時期と関連するとすれば、作曲年代は1696年以前ということになります。
ミシェル・コレットとボノチーニ
ここで1741年、パリで出版されたコレットによる、歴史上初めてのチェロ教則本(バス・ヴァイオリンとしてのヴィオロンチェロが標準化に向かっていくことを後押しした)から、ボノンチーニに関する引用を。コレットは勢いあまってか、ボノンチーニの綴りを間違って?記しています。しかし、古い記録において名前の綴りが違うといった表記ゆれはよくあることです。
ボノンチーニが名手として名声を得ていたこと、そしてなんと「ヴィオロンチェロ」の考案者とした上で、チェロが新しい楽器であることを説明しています。
ボノンチーニがチェロを考案したと言うのは誇張のように思いますが、彼がボローニャで生まれた新しいモデルのバス・ヴァイオリンをローマや(もしかしたらナポリでも)その後活躍したウィーンで紹介したであろうということは想像できます。
さて、ボノンチーニのシンフォニアは、果たしてコレットが述べたような楽器のために作曲されたものであるのか。コレットによる序文の有名な文章を引用してみます。
バス・ド・ヴィオロンはフランスで使われていた大型の低音弦楽器、主に現在のチェロよりも2度低い調弦(B♭Fcg)で演奏されていました。チェロはそれよりもサイズが小さく、ヴィオラ・ダ・ガンバにように扱い易い、と。
モンテカッシーノ手稿 ボノンチーニのシンフォニア
モンテカッシーノ手稿2つのシンフォニアはいずれも4つの楽章に分かれており、緩やかな楽章と速い楽章が交互に繰り返されます。独奏パートは主にテノール記号で書かれており、音域はDからa’まで。特にシンフォニア1番は変化に富み、コレッリ風のラルゴで始まり、トッカータのようなアレグロが続きます。楽器の音域は十分幅広く使われており、アルペジオや重音といった技法も興味深い。2番のシンフォニアにいたっては、最低音がG、つまり最低弦C線(またはD)が必要ありません。なので、2番に関してはGdae’またはd'という調弦でも演奏が可能か。
ガブリエッリの通奏低音付きソナタでもCは避けられており(リチェルカーレではCがあり)、音域的にボノンチーニとの共通性が感じられます。
このような作品の特徴から、ボノンチーニの楽器について、Olivieriは以下のように述べています。
アルペジオと重音の書法、テノール音域に偏る音域から、ボノンチーニの「ヴィオロンチェロ」が少し小さい4弦の楽器であったという仮説はもっともらしいものに思えます。
最低弦Cを2度上げてDにするのは、ビスマントヴァ「コンペンディウム・ムジカーレ」(Ferrara, 1677)ヴィオロンチェロ・ダ・スパッラ(これもどのような楽器かは正確には分かっていません)の項でも見られる例で、小型のバス・ヴァイオリンの弦長と響きの質の関係から考えて大いにありえる話です。
コレットが1741年の教本の中で記述しているのは、後のスタンダードとなるチェロの調弦や様式であるため、このシンフォニア作曲時のボノンチーニのチェロのモデルとは異なる可能性も充分にありえます。
加えてこのシンフォニアは、ボノンチーニがコロンナのためにローマで書いたオラトリオやセレナータに含まれるヴィオロンチェロ・オブリガートのアリアとも類似性があり、ボノンチーニのローマ時代、声楽作曲家としての成果と結びついています。1691年から続くローマでの活動を通して、コレッリを始めとするローマの音楽家からの影響も少しはあったかもしれません。
スカルラッティのヴィオロンチェロ
ボノンチーニがやってきた頃のローマ・ナポリでアレッサンドロ・スカルラッティの作品にも興味深い変化がおこります。
ジュディッタのローマ初演があったのは1693年または1694年、初演の後にナポリでも上演されています。コレッリ組のヴィオローネ(8フィート)奏者でもあるルリエールもすでにローマで活躍中でしたが、「ボローニャ語」でもある「ヴィオロンチェロ」の採用にはボノンチーニの影響があったとは考えられないだろうか。そして、このヴィオロンチェロ・オブリガートを弾いたのはだれなのか?
ナポリにおいてF.P.スプリアー二(1678-1753)、F.アルボレア(1691-1739)ら伝説的なチェリストたちが活躍し始めるのはもう少し後、ナポリの公文書で“ヴィオロンチェロ”が初出するのも1708年のことなので、この1690年代のスカルラッティの“ヴィオロンチェロ”採用は随分と早い印象を受けます。
ボローニャとローマの関係
ボノンチーニのみならず、ボローニャのヴィオロンチェロとローマをつなぐ事情については、以下のような要因もあります。
ナポリのヴィオラ奏者 ロッコ・グレコ
モンテカッシーノ手稿にもその作品が含まれるロッコ・グレコ(1657-1717)についても
一言触れておきましょう。1677年ナポリのポーヴェリ・ディ・ジェズ音楽院の弦楽科教師に就任していたヴィオラ(ここではバス・ヴァイオリン)奏者ですが、彼が上述のスカルラッティのオブリガートに関わっていた可能性はあります。しかし「今日のナポリで最高の奏者で、全ての音楽家からそのように賞賛されて」いたものの、1713年頃になってもロッコ・グレコはスカルラッティ自身から”旧式のヴィオラ奏者 sunador di viola all’antica”と呼ばれているので、1690年代にスカルラッティが求めた、新しい「ヴィオロンチェロ」に対応していたかは分かりません。ちなみに、テゾーロ・ディ・サンジェンナーロ教会でこのグレコの後任に就いたのが伝説のチェリスト、フランチェスコ・アルボレアです。
また、1708年の王宮楽団リストのバス・ヴァイオリン奏者としてロッコ・グレコともう一人は「ヴィオラ」奏者、とされているのに同年、新しく雇用されたF. スプリアーニが「ヴィオロンチェロ」となっているのもナポリでのチェロへの転換期を考えるにあたって、重要な記録となるでしょう。
このようなことを考えていくと、ジョヴァンニ・ボノンチーニの2つのシンフォニアがナポリに関わりの深いモンテカッシーノ手稿に収められていることは、古いバス・ヴァイオリン、ナポリで言うところのヴィオラが新しい小型の「ヴィオロンチェロ」に徐々に移行し、ナポリの作曲家、演奏家の間で急速に支持されるようになったことを示すものとして重要な意味を持ってきます。
また、ローマを経由して、モデナ/ボローニャの新しいチェロの様式がナポリ派の発展に影響を与えたことも示唆しています。
今回のまとめ
1690年以降のボローニャ・ローマ間の関係、1691年からローマにやってきたボノンチーニの活動とそのインパクト、その後のローマとナポリ間の音楽的交流、そしてモンテカッシーノ手稿によって、ボノンチーニのナポリへの遠征の可能性とその影響などを合わせて考えると、短期間でのヴィオロンチェロの出現が説明できるでしょう。
モデナ/ボローニャとローマ、ナポリのバス・ヴァイオリンが線でつながったわけです。
しかし、これはボローニャの楽器と演奏技法をボノンチーニらボローニャ人がローマやナポリに運んで、その地でそのコピーが一気に流布したということを単純に意味しているわけではないことに注意。ローマにはローマの、ナポリにはナポリの伝統があり、そう単純に説明できるものではないのです。
さて、次回はついにローマに話の中心が移ります。
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