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ローマのバス・ヴァイオリン III 〜 コレッリ

はじめに

今回は前回の話に続いて、

「コレッリ研究 STUDI CORELLIANI IV」(1994)
S.ラ・ヴィア Stefano La Via
「コレッリの時代におけるローマのヴィオローネとチェロ 用語法、楽器学的モデル、演奏技法」
« VIOLONE» E « VIOLONCELLO» A ROMA AL TEMPO DI CORELLI
TERMINOLOGIA, MODELLI ORGANOLOGICI, TECNICHE ESECUTIVE

の本論に入っていきます。

ローマの会計記録

まずは文書から紐解いていきましょう。

教会、公共団体、ローマ貴族の庇護を受けた最も重要な家系の文書から追跡可能な会計文書(特に楽器奏者への支払いが記録されたリスト)に関する調査の最初の結果をまとめたのが、こちらの表A。

Stefano la Via, « VIOLONE» E « VIOLONCELLO» A ROMA AL TEMPO DI CORELLI;  TERMINOLOGIA, MODELLI ORGANOLOGICI, TECNICHE ESECUTIVE, 1994

1番左は教会、またはパンフィーリ、オットボーニなど雇用元の名前。その会計文書にある楽器名(低音弦楽器に限る)とそれが記録されている年をまとめたものです。

ヴィオローネ(violone)という用語の初期の普及、その後の一般的なヴィオラ(ダ・ブラッチョと指定されることもある)との共存と交替、そしてこれらからチェロへの驚くほど遅い移行に注目してほしい。

Stefano la Via, « VIOLONE» E « VIOLONCELLO» A ROMA AL TEMPO DI CORELLI;  TERMINOLOGIA, MODELLI ORGANOLOGICI, TECNICHE ESECUTIVE, 1994

ボローニャとローマのつながり

1694年から95年にかけて、S.ルイジ、S.マルチェッロ、S.チェチーリア修道会の記録者たちが、新しいヴィオロンチェロという用語を使用している年代的な一致も興味深い。同じ時期(訳註 ボローニャの)アカデミア・フィラルモニカにいたジョヴァンニ・パオロ・コロンナが、ローマ教皇インノチェンツォ12世を訪問し(1694年8月から9月)、ローマの音楽家のリストの作成を命じ、その中でそのボローニャ用語(訳註ヴィオロンチェロ)も採用されている。 この偶然の一致は、今世紀最後の10年の初めにローマとボローニャの外交関係が特に強化されたことを観察することで説明できるかもしれない。 1690年から1693年まで、ベネデット・パンフィーリ枢機卿はローマ教皇公使としてボローニャに滞在し、とりわけ頻繁に音楽の集会や "アカデミア "を企画した。彼はまた、ジュゼッペ・ヤッキーニとジョヴァンニ・ボノンチーニという、当時最も名声のあった2人のチェロ・ヴィルトゥオーゾの演奏を聴く機会にも恵まれた。 従って、パンフィーリは宮廷において、少なくとも30年以上前からボローニャで起こっていた革命的な楽器学上の革新を、3年間にわたる直接的な経験を通して、確実に把握することができ、その後、オットボーニとコロンナに助けられながら、ローマに伝えることができた。
 また、この2人のパトロンである枢機卿が、楽器と作品を携えて何人かのチェリストをローマに呼び寄せたという仮説(一部は文献的証拠によって確認されている)を排除することはできない。

Stefano la Via, « VIOLONE» E « VIOLONCELLO» A ROMA AL TEMPO DI CORELLI;  TERMINOLOGIA, MODELLI ORGANOLOGICI, TECNICHE ESECUTIVE, 1994
Giovanni Paolo Colonna by Giovanni Maria Viani

ボローニャでのヴィオロンチェロへの呼称移行は1660年代後半から始まっていましたが、それがローマで始まるのは1690年代。その変化にはボローニャとローマの政治的な関係、パンフィーリ枢機卿のボローニャ滞在が大きく関係しているのではないかと。
これはボノンチーニの回でも取り上げた話題でした。

 しかし、オットボーニ、ルスポリ、ボルゲーゼ家の記録者や会計書記は、18世紀の最初の20年間に至るまで「ヴィオローネ」という用語を使い続けていた。 私が直接調査したオットボーニの特別なケースでは、1711年にカンチェレリア宮にガエターノ・ボーニ(訳註 ボローニャのチェリスト)が到着した後も、同宮の会計責任者グレゴリオ・ポルティが古い呼称を使い続けていたことを指摘した。 逆に、ジョヴァンニ・バッティスタ・コスタンツィがオットボーニ家の名簿に登場してから約9ヶ月後(1722年)には、それまでヴィオローネという表記で登場していた同じ名前が、新たにヴィオロンチェロという表記で登場している。 この場合、楽器奏者の先頭に著名なチェロのヴィルトゥオーゾが新たに登場したことが、用語の決定的な更新につながったことは明らかである。

Stefano la Via, « VIOLONE» E « VIOLONCELLO» A ROMA AL TEMPO DI CORELLI;  TERMINOLOGIA, MODELLI ORGANOLOGICI, TECNICHE ESECUTIVE, 1994

ガエターノ・ボーニはボローニャ出身、ローマで活躍したチェリストで、1717年にローマで12のチェロ・ソナタ集を出版しています。オットボーニに献呈された作品の表紙には”A VIOLONCELLO”と明確に楽器名があり、チェロの作品史においてもコレッリの影響を受けた初期のチェロ・ソナタ集として重要なものです。
ボーニがローマに来ても、会計担当者は「あ、それヴィオローネね」と軽くスルーしたのかもしれない。ボーニが小声で「いや、ヴィオロンチェロです、、、」と言ったのもすっかり無視されてしまったのかも笑

そして、ついに出ました。ジョヴァンニ・バッティスタ・コスタンツィ。(引用太字も訳者)
コスタンツィは、1704年生まれの18世紀ローマを代表するチェリスト・作曲家ですが、弱冠18歳でオットボーニ家に雇われたコスタンツィのチェリスト・音楽家としてのインパクトが名簿の楽器呼称を転換するほどであったのかもしれない、という指摘です。私の新しいCD録音「ジョヴァンニ・バッティスタ・コスタンツィ/チェロ・ソナタ集」を聴いていただければ分かりますが、コスタンツィの持っていた音楽性、技術の高さは驚異的で、同時代のナポリに匹敵、もしくは凌駕するものです。
詳しくはCD紹介のノートで。

ヴィオローネとヴィオロンチェロの共存

 これらの要素を総合すると、ローマでそのボローニャ用語が採用されるのが遅れたのは、ヴァイオリン製作上の更新が遅れたというよりも、むしろ、すでに長い間発展して、おそらくもっと以前からローマでも知られていたモデルと関連して、伝統的な用語(ヴィオローネ)が維持されたためであるか、あるいは、異なるモデルが長期にわたって共存し、その後、古いモデルよりも新しいモデルが決定的に、しかし、かなり遅れて普及したためである、と私は解釈している。

Stefano la Via, « VIOLONE» E « VIOLONCELLO» A ROMA AL TEMPO DI CORELLI;  TERMINOLOGIA, MODELLI ORGANOLOGICI, TECNICHE ESECUTIVE, 1994

ローマの楽器製作者がヴィオロンチェロに対応しなかったということでなく、ローマでヴィオローネと呼ばれ続けてきた古いタイプのバス・ヴァイオリンが根強く好まれていた、そして同時に新しい楽器ヴィオロンチェロとも共存を続けていたのだろう、ということです。

図像資料と論文

次に見ていくのは、図像資料と論文です。
少し専門的なので、省略している部分もあります。

コリニョンのエングレイビング(1635年)から始まり、18世紀前半と年代を特定できるゲッツィの風刺画まで遡る。 ローマでない唯一の資料は、ヤッキーニの作品III(モデナ1697年)、N.コジミの作品I(ロンドン1702年)、コレルリの作品VI(アムステルダム1714年)のそれぞれの表装、裏表紙、活版印刷から取られたものである。 後者の2つのケースは、直接的にはコレルリと、今世紀初頭にロンドンに移った彼のローマ時代の弟子の一人に関するものであるが、ヤッキーニのケース(90年にパンフィーリがボローニャで聴いた「イオセッフォ・デル・ヴィオロンチェロ」)は、エミリアの状況との興味深い比較を可能にする。

Stefano la Via, « VIOLONE» E « VIOLONCELLO» A ROMA AL TEMPO DI CORELLI;  TERMINOLOGIA, MODELLI ORGANOLOGICI, TECNICHE ESECUTIVE, 1994
F.Collignon, Concerto, dettaglio dell’incisione per il Balletto di Ninfe e Pastori, Roma 1635
F.Collignon 部分拡大
A.Sacchi, Festa in casa Falconieri, disegno preparatorio per la incisione del Balletto di Ninfe e Pastori, Roma
P.P.Sevin, Concerto di cantanti e musicisti prima di un’audienza di corte, Roma
C.Schor, Festa celebrata dall’Ill.mo Sig.Marchese di Coccogluido, Roma 1687
Frontespizio delle Sonate III di G.Jacchini, Modena 1697
Frontespizio delle Sonate op.I di N.Cosimi, London 1702

ピエル・レオーネ・ゲッツィの風刺画

P.L.Ghezzi “il virtuoso del Sig.r de Bacqueville”, Roma c1720
P.L.Ghezzi “S.Pietro Sterlichi sonator di Violoncello bravo”, Roma 1742

ピエル・レオーネ・ゲッツィ(1674-1755)が熱心な音楽愛好家であり、アマチュアであったことはよく知られている。友人であり教師であったピエトロ・ペスカトーレを描いた風刺画のキャプションから容易に推測できるように、彼自身がアマチュアのヴィオローネ奏者であったことはあまり知られていない。 それを裏付けるように、ゲッツィのデッサンは、描かれている楽器の特徴と演奏方法の両方において、驚くべき正確さと描写のリアリズムを示している。

Stefano la Via, « VIOLONE» E « VIOLONCELLO» A ROMA AL TEMPO DI CORELLI;  TERMINOLOGIA, MODELLI ORGANOLOGICI, TECNICHE ESECUTIVE, 1994

La Via論文の付録にはゲッツィの風刺画がほかにも幾つか載っているのですが、ここでは省略。しかし、上図は2つとも楽器とその奏法がよく見える構図で、非常に良く描かれています。

場合によっては、正確性に乏しいと思われる図像資料もあります。そのあたりは慎重な判断が必要。ここには載せませんが、ボナンニ Bonanni “Gabinetto Armonico“の図などの細部の正確性ついてはかなり疑問符がつきます。

私見では、フランソワ・コリニョンの版画(アンドレア・サッキのデッサンに基づく)、アタナシウス・キルヒャーの『普遍音楽』(1650年)の版画、そして最後に、ローマで印刷されたいくつかの楽譜やリブレット(1695年から1728年まで)を飾った版画も十分に信頼できると考えられる。

Stefano la Via, « VIOLONE» E « VIOLONCELLO» A ROMA AL TEMPO DI CORELLI;  TERMINOLOGIA, MODELLI ORGANOLOGICI, TECNICHE ESECUTIVE, 1994

次に、論文と図像資料の調査結果をまとめた表Bを見てみよう。
まず第一に、(訳註 コリニョンの版画からも分かるように)ローマでは17世紀前半にはすでに少なくとも3種類のバス・ヴァイオリンが知られており、オルガン、アーチリュート、チェンバロとの様々な組み合わせで通奏低音セクションに使用されていたことがわかる。

Stefano la Via, « VIOLONE» E « VIOLONCELLO» A ROMA AL TEMPO DI CORELLI;  TERMINOLOGIA, MODELLI ORGANOLOGICI, TECNICHE ESECUTIVE, 1994
Stefano la Via, « VIOLONE» E « VIOLONCELLO» A ROMA AL TEMPO DI CORELLI;  TERMINOLOGIA, MODELLI ORGANOLOGICI, TECNICHE ESECUTIVE, 1994

これらの証拠に照らし合わせると、ヴィオローネという用語に関して、S.ルイジ、S.ジャコモ、そして他の教会やオラトリオでどのモデルが最初に使用されたかを正確かつ確実に確定することは確かに容易ではない。

Stefano la Via, « VIOLONE» E « VIOLONCELLO» A ROMA AL TEMPO DI CORELLI;  TERMINOLOGIA, MODELLI ORGANOLOGICI, TECNICHE ESECUTIVE, 1994

ローマのヴィオローネ・モデル

そのなかでもまず、このような楽器の可能性を提案できるでしょう。

4本の弦、低い駒、太いネック、短い指板を持つ大型楽器
(Sacchi=Collignon 図参照)=Bontaの言うヴィオローネ?

Stefano la Via, « VIOLONE» E « VIOLONCELLO» A ROMA AL TEMPO DI CORELLI;  TERMINOLOGIA, MODELLI ORGANOLOGICI, TECNICHE ESECUTIVE, 1994


しかし、このキルヒャー・モデルについては、ソノリティの低さとチューニングの高さ(Gdae')は、通奏低音のメロディラインを支えるには不十分で、特にローマの教会の広い空間には向いていないでしょう。

A.Kircher, Musurgia Universalis. Tomus I, Roma 1650

また、実験的な楽器でさらに大きなサイズのもの、7~8本の弦を持ち、五度で調弦され、ヴィオラ・ダ・ガンバの要素(非常に広いネックと指板、フレット)を持つ楽器の可能性も挙げられています。

他方、興味深いのはドーニ、デッラ・ヴァッレらのバス・ヴィオラ・ダ・ガンバに関する記述です。「調律が固定され、ソノリティも乏しい」と「通常のヴィオール」に典型的な音律の多様性の乏しさを訴えているのですが、それはつまり、バス・ガンバがローマで常用されていたことを示唆しているのではないかとLa Viaは言っています。
ここはボンタの言っていたことに対する反論部分ですね。

17世紀後半から18世紀初頭にかけて、楽器のモデルは徐々に安定し、標準化されていったが、それに伴って用語の多様性は依然として、あるいはさらに増して存在していた。まず、トディーニやショールの証拠を考慮すると、ローマにおいてバス・ヴィオラ・ダ・ガンバが広く使われていたこと、さらには教会でさえも使用されていたことを否定することはできない。

Stefano la Via, « VIOLONE» E « VIOLONCELLO» A ROMA AL TEMPO DI CORELLI;  TERMINOLOGIA, MODELLI ORGANOLOGICI, TECNICHE ESECUTIVE, 1994

理論家であり、楽器職人・奏者でもあったトディーニは、1676年に「オラトリオ、アカデミア、セレナーデ、その他の場で使われるヴィオラ・ダ・ガンバ」を製作し、さらにローマでコントラバス(violone grandeとも呼ばれる)を導入したという。実際、S.ルイジのリストでは1672年以降、ヴィオローネとは異なる用語としてコントラバスが現れる。場合によっては、同じ演奏者に対して両方の用語が使用されていることもある。

Stefano la Via, « VIOLONE» E « VIOLONCELLO» A ROMA AL TEMPO DI CORELLI;  TERMINOLOGIA, MODELLI ORGANOLOGICI, TECNICHE ESECUTIVE, 1994

結局のところ、ローマにおいてはヴィオローネという用語は、非常に曖昧な意味として、さまざまなサイズや特徴を持つ楽器、コントラバスやヴィオラ・ダ・ガンバを含む楽器にその都度便利に使われていたのではないか。

しかし、ローマの記録上では、ダ・ブラッツォ属、つまりヴァイオリン属がほとんどを占めています。

S.ルイジとS.マルチェロのリストにあるヴィオラのほとんどは「ダ・ブラッツォ」(すなわちヴァイオリン属)に属することは明らかである。まず、1661年からヴィオラの用語はしばしば「ダ・ブラッツォ」と特記され、「ダ・ガンバ」はほとんど登場しない。さらに、1693年にS.ルイジでヴィオラに分類されていた演奏者が翌年にはチェロに分類されていることもある。

Stefano la Via, « VIOLONE» E « VIOLONCELLO» A ROMA AL TEMPO DI CORELLI;  TERMINOLOGIA, MODELLI ORGANOLOGICI, TECNICHE ESECUTIVE, 1994

それを裏付けるように、1660〜70年代からゲッツィの時代までの図像資料の大半は、バス・ヴァイオリンの例を示しており、ますますチェロのモデルに似てきている。 小さな本体サイズ、指板の短い細いネック、4本の弦、ペグボックスと渦巻き、丸い肩、側面の凹み、f字型の共鳴孔、そして何よりも高い位置にある駒。

Stefano la Via, « VIOLONE» E « VIOLONCELLO» A ROMA AL TEMPO DI CORELLI;  TERMINOLOGIA, MODELLI ORGANOLOGICI, TECNICHE ESECUTIVE, 1994

ということで、これらの資料から言える小さな結論を。

1700年前後、ローマのヴィオローネ 

「ヴィオローネ violone」という用語は、1695〜1702年の間、見た目には小さく、チェロに似ているが、特に肩幅が広く、一般に本体上部が大きい点(Corelli、Cosimi、Kircher参照)、ネックの長さが短い点(Corelli、Cosimi)などによって区別される楽器に関連して使用されている。

Stefano la Via, « VIOLONE» E « VIOLONCELLO» A ROMA AL TEMPO DI CORELLI;  TERMINOLOGIA, MODELLI ORGANOLOGICI, TECNICHE ESECUTIVE, 1994

コレッリ コンチェルト・グロッソ作品6 (1714)

A.Corelli Concerto grossi op.VI, Amsterdam Roger 1714

コレッリの12のコンチェルト・グロッソ集作品6は、コレッリが生前に周到に準備していたとはいえ、作曲者没後の1714年、アムステルダムで出版されたものです。
コンチェルティーノ・パートに、コレッリ作品で初めて「ヴィオロンチェロ」という楽器名が採用されています。

最後にCorelliのOp. VI(1714年)においてのみ、楽器がその全体像は見えないものの、正真正銘のチェロのすべての特徴を持って現れる。高い位置にあるブリッジに加え、ネックと指板の長さ、胴体下部に対して肩幅が狭いことが特徴である。

Stefano la Via, « VIOLONE» E « VIOLONCELLO» A ROMA AL TEMPO DI CORELLI;  TERMINOLOGIA, MODELLI ORGANOLOGICI, TECNICHE ESECUTIVE, 1994

作品6で、ようやく最新のバス・ヴァイオリンであるヴィオロンチェロがコレッリによって採用された、という見方もできるのかもしれません。しかし一方で、アムステルダム出版であることから、ローマで一般的な呼称である「ヴィオローネ」ではなく、当時国際的に通用し始めてきたヴィオロンチェロという呼称を出版元が選択したのでは?、という見方もあります。

作品6はおそらく17世紀末からコレッリによって作曲され、ローマで事あるたび演奏されてきたレパートリーであることを考えると、コンチェルティーノ・パートは1710年前後の事情のみではなく、それ以前のローマでの経緯を考える必要があります。ということは、作品6のコンチェルティーノヴィオロンチェロ・パートは、おそらく出版以前の17世紀末からローマに存在していた楽器で演奏されており、しかもそれはまさに大型楽器から小型楽器への移行時期にあたることから、その状況で使用可能だったさまざまなタイプのバス・ヴァイオリン(しかし、パートが要求するテクスチャから考えて、ローマの一般的なヴィオローネよりは小型である可能性は高い)がその都度用いられていたのではないか?というのは私の考えです。

そして、18世紀初頭に、ストラディヴァリ Antonio Stradivariによって、チェロは最終的な構造的完成段階に至ります(いわゆるフォルマB)。同じ時期にDavid Tecchlerのような有名な楽器製作者がローマで活躍しており、少なくとも1712年から素晴らしい楽器を製作しています。

次回は、La Via論文の続き、残された作品群から見ていきます。

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