年を取るということは、どんな事か?

若い人には未だわからないとは思いますが、それは運命を受け入れれるようになると言うことです。


不思議ですね、あれほど怖かった死を受け入れれるようになります。
ストレイト・ストーリーという映画では、73歳の老人が若いころの不和が原因で長年会っていない弟に会いに、無謀にも芝刈り機に乗って560㎞の一人旅に出かけます。途中で出会った若者に「年を取るってどんな感じ?」って聞かれたとき「いやな過去をいつまでも覚えていることだ」と答えています。
年を取ると言うこととはこんな感じなんです。


では、人間とは何でしょうか?
人間とは考える葦である、人間とは火を使う動物である、人間とは言葉を理解する動物である、或いは自ら勉強する動物である、などなど色々定義が出てきますね。
哲学者が、我思うゆえに我あり、汝自身を知れ、などと言っているところを察すると哲学者も人間とは何かを知らなかったようです。
こんな名言もあります。「大金が人を変えるわけではない、人の仮面をはがすだけだ」、お金持ちを観察すれば人間とは何か見えてくるのかもしれませんね。
でも私はAIが解を導き出せるのではないかと考えています。AIに賢者たちが考えた人間像を学ばせ、その中から本質を導き出すことができれば人間の定義がはっきりわかると思います。
さあ、人間探しAIプロジェクトのスタートです。


プロローグ [AI時代の哲学]

私たちが生きている時代は、人類に取って一つの革命期である思い、未来への指針として何かを残そうと思う。
どのような革命期かというと、封建制度のもとでの大農場でも、産業革命後の大量生産工場でもない、もっと違った概念、具体的には道具やシステムの数や力や範囲を巨大化する革命ではなく、一人ひとりの個々の人間の持つ能力や情報が道具によって強化され超人のようになった人間と、これまた人間が作り出した人間の知識と能力をはるかに超越したAIロボットたちが共存する社会の到来である。
昔から、知識より想像力が重要だ、或いはダーウインの進化論では強いものではなく柔軟なものが生き残ったと言われてきたが、人間がこれまで個人では持ちえなかった能力、即ち情報や道具を身に着けながら調和のとれた社会を形成できるのか、ここに哲学的思考をしてみようと考えた。
私が一番ショックを受けたのは、囲碁AIソフトのアルファ碁’ゼロ’の出現である。世界中の囲碁の名人たちの実際の戦いをマスターさせ、もはやどんな囲碁名人でも打ち負かすことができない最強のAI囲碁ソフト:アルファ碁に、囲碁のルールのみ教えて名人の実戦を全く勉強させず自分同士で600回ほど実戦を経験したAIソフト:アルファ碁’ゼロ’が100回対戦し100勝した。私たち人間は子供たち、あるいは若者たちに、良かれと思い色々な事を教え聞かせてきたが、いわゆるこれらの教育は、果たして誰の為だったのか?甚だ自信がなくなってしまった。もちろん全てを否定する必要はないが、親や大人たち、或いは為政者にとって都合がよいのでこれが正しい、あれはダメだと教えている事柄があることも否定できないため、AI時代では、ある種の情報や道具のみを人間に与えさえすれば、間違った教育や余計な教育を受けてない人間の方が素晴らしい人間になれることをアルファ碁’ゼロ’は示唆してくれている。
又、ロボットの進歩も凄まじい。人間がかってない能力を手に入れると同時に、ロボットも同じ能力を備え、人間と同じ仕事をこなすようになる。人間がロボットに仕事を奪われると警鐘を発する人たちもいる。他方ペットもロボットに置き換えられる時代が来る。ペットのメリットのみ装備し或いは強化し、デメリットをなくした完璧なペットの登場も間近である。
このような近未来に人類が上手に対処していけるのか、まさに想像力と柔軟性が問われている。いくら危険だからAIの開発にルールを設けようとしても、エントロピー増大の法則に従い、多少時間を遅らせる事ができても必ずルールは取り除かれる。ルールがなくても人類が発展し続ける方法がないのだろうか? 新時代到来時に必ず抱える漠然とした不安感を希望に変える方法がないのか?
私は物理学を学んできた。このサイエンス、あるいは自然科学という学問は比較的安全に事実のみを他人に伝達できる。なぜなら、再現性があり誰でも同じ結果を見ることができるため、嘘偽りやマジックや個人の思い入れが入り込む余地は非常に少ない。しかし、自然科学以外の学問や宗教や占いや予言などは間違いや嘘や偽り、更には騙しすら入り込む余地があり、洗脳され人生を棒に振った人たちを私は何人も知っている。また、努力の結果、あるいは生まれ持った才能により大成功を収めた人でも、時が経つとともに破滅へと向かった人たちも多く知っている。これらに共通しているのは、サイエンスに立脚した人生哲学の欠如だったのではないだろうか?
インターネットとAIの発展により、超能力人間が次の世代の普通の人類になることは間違いない。この自分の能力を遥かに超えた能力を備えた自分に柔軟に対応していく術を議論したいと考え、題名を「AI時代の哲学」とした。サイエンス書は事実を伝える事はできるが、そこには人間の営みがなく、この新時代到来への漠然とした不安と希望は語られることはない、また小説であれば読者は共感を感じその中から真実を読み取ってくれるかもしれないが、残念ながら私には新時代の経験も共感を呼び起こせる文章力も持ち合わせていない。ゆえに「哲学書」と題し、小説のような芸術的表現手法ではなく学問的表現手法を選ぶ。


第1章 インターネットそして次へ
インターネットの発明は、過去のシステムを徐々にではあるが根底から変えてきている。
私がインターネットビジネスに手を染めたのは1991年である。その年、定年退職間近の総務部長が私に「インターネットとは何で、どんなことが将来起こるのか?」と尋ねたの時、私自身も未だ具体的イメージがなかったので、「インターネットとは情報のバケツリレーで、光の速度で瞬時に世界中に情報を届ける、ただそれだけです。ビジネスにどのような影響があるかわかりません、ただ言える事は、昔ローソクの時代に裸電球が各家庭についたとき、同じような質問をされた人は電気が作り出す未来をどう語ったでしょうか?、今各家庭から世界中の人とメールで瞬時に情報を交換できるようになったのです。」とお答えした。全くお粗末な回答であるが、それなりに的は外していない。何せその時の私のインターネットの知識レベルは、「Hello」と打ち込み、隣の席の人に「本日は晴天である」とメールを送って喜んでいる程度であった。
その後の進歩は皆さんが知っての通りで、色々なビジネスがインターネットビジネスに置き換えられて、さらにブロックチェーンという概念が資本主義と国家の根幹をなす金融システムに迫ろうとしている。よく言われることであるが、開発途上国は独裁政治の方が先進国に早く追いつけるが、先進国になれば独裁政治はつぶれると考えられていて、全ての分野ではないが多くの分野で先進国に追いつき追い越す勢いの中国の例を見るとなるほどと納得できる。しかし昔はそうであったとしても、今はインターネットが存在する、インターネットは怪物で一旦野に放たれたら、それを押さえ込めるのか、はなはだ疑問である。中国でのITの管理の行方を注目していきたい。インターネットで何がどう変わったか、具体例を見てみよう。
インターネット以前の地図は、分厚いあるいは広い地図帳がありその中の何処に自分がいるかを探していた。インターネット時代の地図は全く違う、画面上の真ん中に自分がいて、その周りに地図がかき集められる。同じ地図ではあるがこの地図はインターネットの向こうのサーバーにあり、利用概念が全く違っている。洋服屋さんも進化している。以前は店に行き、在庫の中から気に入った洋服を試着して、後ろの鏡をのぞき込み必死に後ろからどう見えるかをチェックし気に入れば購入していた。最近の洋品店は、在庫が全くなく試着用の服しかないおいてない店、或いはネットショップでサイズや色違いの服を数枚家に送ってもらい家で試着をして気に入ったもの以外を返品する洋品店、試着の姿を四方のカメラで撮影し、360度どこから見た姿もスクリーンに映し出せる試着室を備えた店など、インターネットの出現でビジネスをこれ以上継続できなくなりそうな店舗が、あらゆる想像力を発揮し生き残りをかけ戦い続けている姿に人間のたくましさを垣間見ることができる。

インターネットに続くIT技術をここで紹介する。デジタル時代の到来以降色々なデータがデジタル化されてきた。例えば土地の台帳や家の台帳等不動産に関する登記データも将来デジタル化されるだろう。アナログ時代のように原本があるわけでは無いので、一旦デジタル化されるとそれが本物であることを保証しなくてはならない。これを実現する手段としてブロックチェーンと言う技術がある。仮想通貨のマイニングに使われているブロックチェーンである。悪名高い仮想通貨を支えているブロックチェーンと言う技術は実はインターネット時代のディジタルデータの信ぴょう性を保証してくれる重要な技術でもある。

2章 未来とAI
現在が分かっていて過去を知らない人達と過去は知っているが現在を分からない人達、更には過去も現在もわからない人達が混在している現在において、いずれの人たちも、これから起こる未来について何も知ってはいないがゆえに抱く、不安と希望にどのように立ち向かっていけばよいのだろうか?
人類は時間と距離と力を克服する道具を作り出し、何日もかかる仕事を1秒でできるようになり、何キロメートルもある巨大なものを米粒大のチップの中に再現し、何百人もの人の力を結集しなければ動かすことすらできない力を機械で代替してきた。そして労働者はこれまでやってきた仕事を機械に任せ、自分はその機械のオペレーターとして生き延びてきた。(荷馬車の行商人はトラックのドライバーになり、スコップを手にした肉体労働者はブルドーザーを操作し、そろばん片手に大福帳を付けていた人たちがコンピュータを操作しながらホワイトカラーとして君臨している:今まさにこのホワイトカラー族がピンチを迎えている)
AI時代になるとそうはいかない、オペレーターの仕事がAIに取って代られるので人間に残された仕事は非常に高度なものに限られるが、それをすべての人間がこなすことは不可能である。一定以上の能力・知力のある人以外は、すなわち高度な技術を身に着けれなかった人は転職できずに仕事をAIに完全に奪われてしまう。
一方で超能力人間の時代でもある。超能力人間のことをAR,:拡張現実という言い方に習い拡張人間と呼ぼう。昔は人間が便利さを追求し開発してきた道具は人間とは別の場所にあった。PCが最たるものでPCはオフィスや家庭にありPCを担いで外出することはあり得なかった。その後バッテリーの開発やネットワークの屋外への展開と、ノートPCやタブレットやスマートホーンの出現により道具が身体の中とは言わないまでも身に着けて外出できるようになった。次に来るのは身体に道具を密着したサイボークのような人間、すなわちITを身に着けた拡張人間の出現である。スマホ連動の腕時計を装着した人や、パラリンピックの100m走の競技者を見るとなるほどと思う。未来の社会ではAI対人間ではなく、AI対拡張人間の仕事の奪い合いである。

ではAIと人間の線引きはどうなるのだろう?
社会システムの一つに民主主義がある。ここに人間とAIの境界を見つけるヒントがある。
日本では2020年度から、従来のマークシート式大学入学共通テストに記述式テストを追加導入するかどうかを民主主義の象徴である国会で議論され、最終的に多数決で決まると思われた。国会で「読む・聞く・書く・話す」の4能力を問う民間試験導入の是非が議論されたが、とても人間らしい(ばかげた)議論が行われた。
政治家は日本国民が英語力を強化することに賛成か反対かを議論ですべきで、それをどのように実現するのかを政治家が真剣に議論しているのは実に滑稽である。
ここにAIと人間の明確な居場所が見える。
民主主義では人間はすべての人が1票を持っている。AIは難しい問題を解き実現する。
上の例でいえば、政治家が(自らの趣向で)賛成か反対を表明する仕事は人間の仕事、それをどのように実現するかはAIの仕事である。
次の章ではもう少し具体的な未来に言及する。


3章 不安と希望
人はどんな明るい場所でも影を見つけ、逆にどんな暗いところでも一点の明かりを見つけることができる。
これから起こる未来に漠然とした恐怖を感じ恐れおののく人もいれば、その未来に一筋の希望を見出し現在の苦境から脱出しようと望みを託す人もいる。
私たちは過去に生きることはできない。未来で生きていく動物なのだ。
寒い夕暮れ時に西の空を見ると雲や山や空が赤く染まっている、さあ家路につこう、家に帰ればお母さんが暖かいご飯を作って待ってくれている、この懐かしい感傷、あたたかな母の思い出、その母はもうこの世にいない、そして自分の子供たちが小さかった頃を思う、なぜあの時もっと優しくかわいがってあげなかったのだろう、でもその子供たちも立派に成長し、今ごろかわいがるそぶりをしてもウザったく感じるだけだ、もうこれからできるのは孫に対する愛情だけなのだ。
そう、我々は未来の中でしか生きることも愛を表現することもできないのだ。
私が一番嫌うことは、この一番大切で不透明な未来をビジネスに使う人たちだ。誰もが抱く大切で美しい私たちの未来に対し抱く、分からないがゆえに抱く不安をネタにあるいは煽りお金を稼ぐ人たちを許すことができない。
私のAI時代の哲学がこれらのあくどいビジネスを打ち破ってくれれば望外の喜びである。

さて、人間、動物そしてAI、この3つのグループを2つのグループに分けたいと思うがどのように分ければよいのだろうか?
人間と動物は生き物である、又、自分たちで作ったものでなく自然に作り出されたものである。人間には権利がある。ペットにも権利があるようだが裁判では人間の所有物として扱われる場合もあり、人間と同じような完全な権利とまではいっていない。クジラに代表される、アニマルライトという動物の生存権もあるようだ、でも生きとし生けるもの全てが貴重で尊重されなくてはいけないが、これらの権利は多少人間に似通った知能を持ち合わせていない生き物には適用されていないようだ。アリを踏みつぶしても特別な感情が湧かないところを見ると、さあいよいよい絶滅すると切羽詰まった時点で皆が騒ぎ出し貴重なので保護しようということになっているようだ。
AIはどうだろう?AIは自然に生まれたものではない、人間の制作物である。こう考えると人間と動物が一つのグループ、AIがもう一つのグループと考えることができる。
しかしながらAIと人間は能力にこそ差があるが思考という次元で分類しようとすれば動物たちに比べはるかに似通っている。
こう考えると人間とAIが一つのグループ、動物がもう一つのグループと分類することができる。