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裏切りの選択


絵を買いたいというメールが届き、喜んで対応した画家・敬之であったが、それは偽造された国際為替を用いた詐欺メール。さらに同棲している敬之の彼女・裕子にも犯人と思われる人物の魔の手が……。スパイ、アメリカ国際為替を題材にした短編恋愛小説。




1

- 裕子 -

 薄黒い視界が広がりを見せたのは、無意識から目覚めた深夜のことである。

 しっかりとロープで縛られた手と足。解きほぐそうとすり込むようにして足をバタつかせても、釣り針に結ばれた糸のように規則的に拘束しているロープは、まったく動く気配すらない。
 猿轡と思われるモノが、裕子の口から垂れる唾液の量を増やしていた。噛んでもグリッ、グリッと、その無機質な音と感触、横隔膜を上下させて声を発しようと試みるものの、喉奥の僅かな振動音が聞こえるだけだ。

 胸のすぐ下の器官が、裕子の呼吸をしにくくさせている。水月(みぞおち)のあたりから無感覚の激痛が磁場のように広がる。自分で息をしているのか、いないのかも判らない、このまま意識が遠のいていくような、得もいわれぬ安堵感を覚えた。僅かばかりの空気量交換がなされているようで、この状態を維持できている自分をなんとか認識している状態だった。

 胸騒ぎは当たっていたかもしれない。
 裕子はそう考えていた。
「気づいた?」
「あぅう……」
 声が出せない。だが、この声。
「すみませんね」
 ここは?
 きのうの夜はいつものように自分のアパートで眠りについた。
 住んでいるアパートに比べて、雑音じみた音は耳に入ってこない。ここは静かだ。
 目隠しされた布の隙間から漏れる薄暗い光も、場所を推測するまでの材料には至らなかった――。

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- 敬之 -

 先日、ヒラリーという女性から、敬之の描いた絵を買いたいというメールが届いた。英語で書かれた文章、そして差出人の名前から推測してアメリカ人と考えられる。彼女が欲しいと言っている絵画は、敬之本人が最も気に入っているシリーズの作品でもあったため、そのときは喜んで対応した。

 はじめまして。
 どこかに素敵な絵がないものか探していたら、あなたの素敵な絵を見つけたの。
 今お持ちの絵の中から幾つか買いたいんだけど……。こちらの絵がまだお手元にあることを願います。
  ・パリの街角
  ・ロンドンの風景
  ・果物
 私たちの新しい家に飾れると素晴らしいと思う、全部でお幾らぐらいするのかしら?
 私達は、南アフリカに建てた新しい別荘に、今住んでいるアメリカから移動しているところです。支払いについてはアメリカ国際為替でお支払いできますので。
 お返事お待ちしております。
                                ヒラリー

 二宮敬之、画家、独身。今日も相変わらず絵を描き続けている。すでに同棲生活を送って何年になっただろうか、アルバイトとして働いていたコンピュータ関係の会社で知り合った、裕子のアパートに居候している状態。
 絵にはまったく興味を示さない裕子は、ホームページ上からまい込んで来るこのようなメールにもいろいろと難癖をつけようとする。

 ヒラリーさま
 メール頂きました、どうもありがとう。
 私の絵画を評価して頂いてたいへんうれしく思います。新しい別荘のためにお買い求めということでなによりです。さて、選んでいただいた絵画はすべて手元にありますので、全てお買い求めできます、価格はこちらです。
  ・パリの街角   ― US$400
  ・ロンドンの風景 ― US$400
  ・果物      ― US$200
 あと、日本から南アフリカ共和国までの送料がかかります。
 郵便局のエクスプレスサービスでUS$100~150程度です。もし全ての絵画をご購入される場合には、送料はこちらで負担します。よって合計金額はUS$1000になります。
 アメリカ国際為替でも大丈夫ですけれども、絵画をお送りする前に国際為替を確認させて頂きます。ではお返事お待ちしております。
                                 二宮敬之

 一度に3枚も注文してくれそうなこのヒラリーという女性、自宅のあるアメリカから、新しく購入した南アフリカの別荘に移動しており、その別荘に見合った絵画を探しているらしく、最近になって敬之の絵画をネット上のどこかで見つけたらしい。
 敬之のホームページには、海外からの問い合わせのメールは少なくない。絵画を自宅の壁に飾っておく習慣は、日本人よりむしろ外国人の方が多いため、海外からの問い合わせにも対応できるようにしておいたのだ。
 ネット上からの注文は個展やグループ展でのそれには及ばないものの、これまでにある程度の販売実績があった敬之は、今までと同じような手続きをとることにより、さほど苦労せずにさばけるだろうと考えていた。

「ねえ敬之、このパリの街角ってあの10号の絵よね。400ドルっていえば、えーと、一ドル100円としても4万円? ねぇ、ちょっと安すぎない?」
 裕子は怪訝そうに聞いた。
「そうかなぁ」
「4万円だよ? 無名な画家の絵に4万円も出してくれるなんて」
「そう? でも敬之は将来有名になるんでしょう? だったらそんな安売りしてもいいわけ?」
「それに、あの絵は敬之のお気に入りじゃなかった?」

 裕子の言いたいことは十分わかっていた。いくら敬之が有名でない画家だとしても、自分のお気に入りの絵をポンポンと安売りするようじゃ駄目だとでも言いたいのだろう。この自信のなさが画家としての敬之の出世を拒んでいる要因の一つだろうか、それとも異なるお互いのビジネスセンスの問題だろうか。ただ居候として裕子のアパートに住んでいる敬之にとって、そんな贅沢なことを言ってられないというのが現状なのた。

「なぁ裕子、少なくとも俺の絵を欲しいと言ってくれる人がいるんだ。それは誰であろうと画家としてはとても光栄なことじゃないのかい?」
「そうね、まったく売れない画家より、いいかもね」
 裕子は少し皮肉っぽく言った。
「それに、今の俺にとっては、お金よりもこういう喜んで飾ってくれる人がいるほうが、描く意欲がぐんと増すんだ」
 言い訳がましく聞こえないように、裕子をまっすぐに見ながら言った。
 一方では生活費のほとんどは裕子持ちであるという現実。
「そうかもね」
 裕子はある程度のことはあきらめていた。
「まぁ、3枚いっぺんに買ってくれて1000ドルだから、だいたい10万円。少なくとも、毎月これくらいのペースで売れればなぁ」
 一ヶ月に数枚売れるか売れないか、といった販売頻度の敬之の絵。一度に3枚もの絵を買ってくれる客なんてまるで神様のような客なのだ。そしてそれが、まったく会ったこともないような外国人ともなるとなおさらのこと。海外に一度も行ったことのない敬之にとっては、なんとなくではあるけれど、自分の絵が世界的に認められたような、そんな幻想にも似た感覚を覚えていた。
 そして数日後に、ヒラリー夫人からの返事が来た。

 二宮様
 質問のお返事どうもありがとう。
 そうなの、それらの3つの絵画を購入したいの。新しい家の壁にとっても合うと思うわ。
 料金の支払いについては、アメリカとヨハネスブルクを行ったり来たりしている夫に知らせるから、しばらく待ってくださいね。
                               ヒラリー
                                       
 ヒラリー夫人のご主人は彼女とは別に移動しており、その人が絵画の購入代金として、アメリカ合衆国の国際為替を送ってくれるというのだ。
「ねぇ、国際為替って?」
 裕子が尋ねた。
「そうだな、現金の代わりとして使える、いわゆる小切手みたいなものさ。海外からの送金だといろいろ手数料とかとられちゃうだろ、だから、その費用と手間をかけずに済むんだ」
 敬之は少し得意げに言った。
「ふーん、銀行振込でいいのにね、別に」
 裕子はなんとなくそう言ったつもりだった。
「振込みもいろいろ面倒だろうし、向こうがそう言ってるんだ」
 敬之はとにかく絵を買ってくれそうな、そのヒラリー夫妻に期待していたため、その意向というか希望に少しでも背きたくなかった。
 通常の顔を合わせて行う商取引とは異なるネット販売。メールのやり取りだけでその手続きを行うため、信用されなくてはまったく売れないのが普通だ。なのにこの客は、先に絵の代金を支払ってくれるという。そしてこちらがそれを確認した後に、品物を送っても構わないと言っている。
 アメリカから南アフリカ共和国の別荘に移動中というこの夫妻、よっぽどの金持ちではないだろうか。
 そして翌日、国際為替を送ったというメールが届いた。

 二宮様
 お元気ですか。
 料金は、夫が3日間の会議のために、南アフリカ共和国へ行く途中の西アフリカに立ち寄った際、そちらの住所宛に送ったみたいなの。
 というのも、旅行に行く前に送るのを忘れたから。代金はもうしばらくしたら着くと思います。
                                ヒラリー

 ヒラリー夫人の旦那さんが、西アフリカからこちらの住所宛に、代金がわりの為替をすでに送ったらしい。西アフリカで何の会議があるのだろうかと一瞬考えたが、代金を送ってくれたという知らせは、僅かばかりの敬之の不安をとり除いてくれた。
 為替が届くまでの間にいつでも先方に送れるよう、敬之はあらかじめ絵の梱包作業をしておいた。
「ねぇ敬之。きのうの朝ね、ここのアパートをジッと監視して……たかなぁ? そんな人を見かけたんだけど、気のせいかしら?」
 裕子がいつになく心配そうに尋ねた。
「朝? そんなあやしい人間なんて、見たことないけどなぁ」
「なんか、サングラスかけてて、ちょっと歳とってたかも、たしか……。それになんか日本人っぽくなかった気がする」
「そりゃ何だか、気味が悪いな」
「ええ」
 裕子がこんなことを気にするなんて今までほとんど無かっただけに、敬之はなんとなく心配になった、裕子の勘はけっこう当たることが多いのだ。
「じゃあ、このへん出歩くときには気をつけてみるわ」
「ええ、何か不気味な感じがするの、なんとなくね……」
「大丈夫だよ」
 敬之は、絵が売れたことで気持ちに張りが出来ていた。

- 裕子 -

「斉藤さん、最近どう?」
 そう聞いてきたのは、同期の中でも裕子と一番仲のいい小林君だった。
 小林君とは、この会社に入ることが決まった内定式のときからの付き合いである。さほど大きい会社ではないため、同期といっても何十人もいない。女性がエンジニアとして採用されることがあまり多くないコンピュータ関係の会社だからだろうか、プロパー社員の同期はほとんどが男で、その内の一人がこの小林君である。
「どうって?」
 裕子は聞き返した。
「うん、いろいろ」
 小林は話題を考える素振りをしていた。
「忙しい?」
「まぁまぁね」
 IT全盛期に比べると、だいぶ熱が冷めてきているこの業界。裕子にとっても、そろそろエンジニアとしてではなく、その管理能力が問われる年齢となっていた。
「そういえば、小林君って結婚したんだよね」
 裕子が話題を変えた。
「うん、先月だけどね。式も挙げなかったし、まだ独身だって思われることもあるんだ」
 小林は苦笑いした。
「へー、そっか。じゃあ今は新婚ホヤホヤってわけね」
 裕子はひやかすような視線を送りながら微笑んだ。
「まぁそうだね」
 小林は照れくさそうにしていた。

 裕子はこの会社に入社し、小林という男に対して単に同期というだけではなく、同性に近い感覚とも似た異性として見るようになっていた。他の男性陣よりも、比較的に見た目や話し口調が温厚そうで話し易かったからだろうか、いろいろな仕事の悩み、そして上司の愚痴もよく聞いてくれる、裕子にとっては有りがたい存在である。
 周りから見ると、この二人は仲の良いカップルとして映っていたのだろう。小林が先月、結婚するということを周囲の人間が知ったときには、ひょっとすると裕子が寿退社をするのではないかと聞かれたくらいだ。

「子供はどれくらい作るの」
 いきなりの裕子からの質問に対して小林は顔を赤らめた。
「えっ、えーと、そんなの判んないよ」
「そう? どうして?」
 裕子は小林が困るような質問をわざとしていた。照れながらも、気の弱そうな小林は笑顔で話してくれた。
「そういう斉藤さんの彼氏は?」
 知り合ってから一度もそれについて聞かれたことがなかった裕子は動揺を隠せなかった。それは敬之について聞かれたということではない、小林のそのいつもとは異なる話しぶりに対してのものだった。
「えっ、ああ、相変わらずよ」
 どことなく、いつもの小林君と違う雰囲気かなと思ってしまったせいか、それだけ答えると、さて仕事だ、というような素振りでデスクのほうに視線を移した。
「じゃ、また」
 小林のほうも裕子の態度から何かしらの違和感を感じたのか、さてっ、といった感じで背伸びしてからその場を去っていった。

 一人、また一人、と結婚していく。
 もはや同期の女でこうやって会社に残っているのは自分一人となってしまった。そろそろ決めなくてはと、頭の中では敬之とのことを思い浮かべていた。
 敬之と結婚したとして――。
 既に同棲生活を送っているだけに、今までとほとんど変化が無いだろう、ということに気がついた。
「生活そのものは変わんないんだろうな、きっと。変わるのは……周りの私たちに対する見方かしら」
 ほとんど収入のない敬之を自分が養っている現状。そんな現実を、自分の家族や親類がどのように感じるか……。
 改めて結婚は遠そうだなぁと、一人ぼんやりとしていた。
「あっあの、斉藤主任」
 部下の一人が裕子のデスクの前でささやくようにして立っていた。
「あっああ、なっ何?」
「データなんですけど……」
 ぼーっとしていた顔を部下に見られてしまったようだ。なるべく目を合わさないように話してくれる部下に対して、少しだけ恥ずかしく思いながら、手渡されたUSBスティックを受け取っていた。

「ただいまー」
「あっ、おかえり」
 来る日ごとに年だけとり続けて、まったく幸せというものが見えてこない敬之との生活。敬之は私との将来をどう考えているのだろう。
 裕子はテレビを見ている敬之の顔を見ながら考えた。
「なんか顔についてる?」
 いつになくしんみりとしている裕子に何か感づいたのだろうか。なにっ? といった顔つきで、敬之は裕子のほうを不思議そうに見ている。
「えっ、あっ、ああ、あの……」
 はっとして我に返った裕子は返す言葉をいろいろと探した。敬之は再びテレビのほうに視線を移していた。
「そういえば、あやしい人なんて見なかったよ、今日は」
「そう……」
 何のことか判らずにそう答えておいた。


2

- 敬之 -

 数日後。
 国際為替の入った封筒が普通郵便にて届いていた。
「ねぇ、なんか届いたわよ」
「やっときた。あれっ? 普通で来たんだな、なんか物騒な……」
 うす茶色のそこらへんにありそうな封筒。敬之宛にこのアパートの住所がローマ字で書かれてある。敬之がメールで知らせておいた住所と氏名をそのまま写して書いたのだろう。ヒラリー夫人のご主人が書いたものだろうか、その筆跡は乱雑と言えるぐらいのものだ。
 そして差出人の名前と住所は書かれていない。
 ビリッビリッ。
 敬之は、少しばかり高揚した気持ちを抑えきれずに、急いでその封筒を破った。めったに手にすることのない売上金。その証拠でもある国際為替を早く見たかった。

「おっ、入ってる、入ってる」
「あれっ? 何か……」
 4枚ものUS$650の国際為替が入っている。請求代金であるUS$1000に対して、倍以上のUS$2600もの金額分の国際為替が送られてきたことになる。
「ねぇ、ちょっと多いんじゃない?」
 裕子がちょっとうれしそうに、にやにやしながら尋ねてきた。
「うん、かなり多いね、何でだろ?」
 敬之は首を傾げながら不思議そうにその国際為替を手にとっていた。
 国際的な絵の取引を行うときには、大抵の場合、銀行振り込みで代金を回収している。そのため、国際為替なんて今まで一度も見たことがない。日本のお札よりも、若干、派手めではあるが、その印刷技術はさほど変わらないといっていい。
「なかなかしゃれたデザインなんだなぁ」
 敬之は早速、代金を送ってくたれたお礼のメールをヒラリー夫人に書いた。それと同時に、だいぶ多めに入っていた国際為替に関する質問もしておいた。

 ヒラリーさま
 代金の国際為替が本日届きました。明日にでも郵便局に持っていって、現金に換金する予定です。
 ところで、4枚ものUS$650が入っていました。ということは、ご主人の送られた為替の合計金額はUS$2600です。絵画の合計料金はUS$1000だけです。
 代金の余りの分であるUS$1600は、そのまま郵送して送り返すか、全て現金にして銀行振り込みにするか考えています。
 どのようにしたらよろしいでしょうか、お知らせ下さい。
                                 二宮敬之

 敬之は、代金の余剰分であるUS$1600を、そのまま黙って拝借しようかとも考えた。が、日本から南アフリカ共和国までの絵画の運賃代をあらかじめ多めに計算して、これだけの為替を送ってきたのか、それとも何かの間違いなのか、とにかく正直に尋ねることにした。
 そして、メールの返事を待った。

 二宮様
 主人から絵画の代金が届いているということで何よりです。
 多すぎた料金については、夫の勘違いだったみたい。運搬業者がそれくらいすると言ったみたいなの、なにせ日本から南アフリカ共和国までなので。でもそちらのサービスで送料をタダにして頂けるのなら、そうさせていただくわ。
 明日にでもすべての為替を現金に換金して頂けませんか。
 絵画代のUS$1000だけ受け取ってもらって、残りのUS$1600は絵画の中に入れといてください。
 ではよろしくお願いします。
                        ヒラリー

「ちぇっ」
 敬之はヒラリー夫人からの、余りのUS$1600を敬之から送り返すことを要求せずに、そのままとっておいていいですよ、というメールの返事を期待していたのだ。だが、余剰分のUS$1600も、郵便局にて現金に換金した後に、送り返してほしいという内容だった。
 敬之はちょっとがっかりした。とはいえ、本来の絵画の代金分であるUS$1000が手元に残ることで、まあしょうがないと自分をなぐさめていた。
「まっ、3枚も買ってくれたんだ」
 そう呟きながら敬之は明日にでも郵便局に行って、この国際為替を換金しようと考えていた。

 そして、郵便局窓口。
「あのー、実はこちらの国際為替……」
「ちょっと透かしが見えないので、もう少し詳しく調べてみます」
「もうしばらくお待ちください」
 そう言うと、50代ぐらいの窓口の女性は、奥の部屋へと消えてしまった。
「あんまり扱わないからって、ゆっくりしてんな、もう」
 換金作業に手間取る窓口の女性職員に対して、敬之はのんきに構えていた。
 しばらくすると、先ほどの窓口の女性とはまた別の、年配の男性職員が敬之の前に歩いてきた。
「あっあのー、実は」
「あちらの部屋で詳しく……」
 敬之は奥の暗い部屋へと連れて行かれた。

 『郵政監察官 佐竹信人』
 紺色のスーツに身を包んだ、いかにもエリートらしい様相をした男性が待っていた。30代後半ぐらいであろうか、こちらを凝視したまま名刺を差し出した。
 敬之は恐る恐るその名刺を受け取った。
「こちらにどうぞ」
 その声は僅かではあるが、動揺、いや疑っている相手に対して発するときのもの、敬之はそう感じた。
「どうも」
 指定されたパイプ椅子に座った。
 しばらくしてから、佐竹郵政監察官は敬之にこう切り出した。
「えーと、こちらの国際為替ですが……」
「は、はい」
 何を言われるのか恐る恐る、佐竹の目を見ながら頷いた。
「偽造されたものです」
 佐竹監察官は、静かに敬之のほうを見た。
「ほっ、本当ですか?」
 敬之は驚いた。自分にそのような事件が降ってくるとは思っても見なかったからだ。
 今まで本物と思っていた為替は「偽造」されたものであり、この手でソレを現金に換金しようとしていたのだ。知らなかったとはいえ自分が犯罪に少しでも関わっていた、そしてそれに加担させられようとしていた。
 ヒラリーと名乗る人物。証拠が残らぬよう自分をダシに利用しようとしていたのだ。
 敬之は不快に感じるとともに、なんという巧妙な手口だと感心してしまっていた。

「郵政公社としても最近このような事件が多発しておりまして、注意していたところなんです」
「それで……幾つか質問をさせて頂きます、いいですね?」
 その後佐竹監察官は、手元に置いてある偽造為替についての、入手経緯、換金目的などを詳しく聞いた。特に悪いことはしていないという確固たる自信のあった敬之は、それまでのヒラリーと名乗る人物とのメールのやりとりを詳しく説明した。
「なるほど。ということは、そのヒラリーと名乗る人物から、絵画の代金としてこれが送られてきた。そして全てこちらで換金してから、その余剰分を送り返すように、と指示された訳ですね?」
「ええ、そうです」
「ということは、そのヒラリーと名乗る人物とはまったく面識も無いと」
「はい、メールのやりとりだけです」
「わかりました」
 佐竹はしばらく思考してから、
「それでは現在、そのヒラリーと名乗る人物は、この為替が偽造であったということを知らされていない訳ですね?」
「そうです」
 敬之は答えた。
「では、そのヒラリーと名乗る人物のメールアドレスや、送られてきた封筒などについて、後ですべてこちらに教えていただきますか?」
「あっはい、じゃあとでお教えします」

 数日後。
 ピンポーン。
「はーい」
 裕子が出勤前の忙しい時間にだれだろうといった顔をしながら、玄関のドアを開けた。
「二宮敬之さんは、こちらにいらっしゃいますか?」
 サングラスをかけたスーツ姿の男が立っていた。裕子は一瞬、以前この近くで見かけた男かとも思ったが、その男とはまた印象が異なる。
「敬之、お客さんよ……」
 裕子は心配そうに敬之を呼んだ。
「すみません、朝早くから」
 男はサングラスをはずした。
「私、郵政公社の佐竹監察官の代理として――」
 歯磨きをしながら玄関まで歩いてきた敬之に名刺を差し出した。

 『郵政監察補佐官 金本泰司』
「はっはい、あのー 何か?」
 敬之はなんとなく不安な気持ちになった。
「あっ、えーと、電話でも良かったのですが、実は――」
 金本観察補佐官の話によると、国際為替の余剰分を送り返すという手口で、日本国内の他の郵便局で同じような被害が何件も発生しているらしい。
 郵政公社側で、敬之から提供されたヒラリー夫人と名乗る人物からのメールを分析したところ、他の事件でも同じようなメールが海外のサーバーから送られてきているらしく、同一犯もしくは同一グループによる組織的な犯行ではないかということだ。
 偽造為替の入っていた封筒に押されていた消印、あれもどうやら偽造されたものらしく、何者かが郵便局員もしくは配達員らしき人物になりすましてポストに投函した可能性がある。日本国内にも犯行グループの仲間がいるかもしれない。
 そして偽造された国際為替の通し番号に同じものが見つかった。あれだけの精度の偽造為替を作れるだけの技術があれば、例えば偽造紙幣も作っている可能性だってある。ただ、その独特の偽造防止策である特殊なすかしの技術までは導入されていないようだ。

 金本監察補佐官は、敬之に一通りの説明を終えると心配そうにこう言った。
「こんどの一連の事件には、海外の紙幣偽造グループが関与しているらしいんです。ネットで気軽に買い物ができる便利な世の中になったのはいいんですけど、一方でこのような犯罪が起きやすくなりました」
「やつらは、比較的に裕福で正直な日本人を狙ってるらしいんです、それで……」
 金本観察補佐官は、そのあと言葉を濁した。
「なっ、何ですか?」
「えっええ。あと最近、身の回りであやしい人物とかって見かけませんでしたか?」
 敬之は、この前に裕子が話していたことを思い出した。
「裕子、なんか怪しい外国人っぽいやつ、この辺で見かけたって言ってなかったっけ?」
 敬之は後ろの部屋で聞いていた裕子に尋ねた。
「ええ、見たわよ、すぐそこで。この人みたいなサングラスかけた、ちょっとあやしいひと」
 金本観察補佐官は少し苦笑いをした後、あらためて真剣な顔つきでこう言った。
「もし、何かありましたら、私どもでも構いませんが、できれば警察の方にも連絡をお願いします」
「なっ何かあるんですか?」
 敬之は心配になった。
「ひょっとすると、その紙幣偽造グループの一部員が、日本にすでに潜伏しているという情報があるんです。どこの系列なのか、ちょっとまだはっきりとつかめていません。これはあまり公にできない情報ですので」
「そうですか……」
 敬之は、ごくりっ、と唾を飲み込んだ。
 金本観察補佐官は、二人に気をつけるように念を押して、その場を去っていった。よっぽど安心できる状況ではないのだろう、こんな出勤前の忙しい時間にやってくるぐらいなのだから。

 一週間後。
 ヒラリーと名乗る人物からのメールはない。おそらく郵政公社もしくは警視庁のほうで捜査が入ったのだろう。
 敬之もそのヒラリーと名乗る人物にメールを送ることを止めた。そして、今回のこの事件はひと段落したような気分になっていた。
「まっ、いい勉強になった、今度から裕子の言ったとおり銀行振込にするよ」
 敬之は裕子のほうを見ながらそう言った。
「そうねぇ、面倒だけど、そっちのほうがいいかも」
 裕子も納得しているようだ。

- 裕子 -

 次の日。
 いつものように会社の打ち合わせスペースで、総務部で同じくらいの年齢の女性社員と雑談をしている裕子がいた。
「ねぇ、裕子ってまだ結婚しないの? いま付き合ってる彼とかさぁ」
「そうねぇ、まだまだみたいね」
 あえて、そのような答え方をした。
「ねぇ、裕子の同期の小林君っているじゃない?」
「うん」
「最近、結婚したみたいなんだけど……」
「なんかね、お相手の人って外国人らしいよ、それも金髪だって」
「えっ、そうなの?」
 裕子は以外な気がした。というのも、あの大人しそうな小林君が、どのようにしてその金髪女とやらを口説いたのかが想像できなかったからだ、
 あんな大人しそうな顔して……。
「ふーん、そなんだ……」
 少しだけ小林に対して気があっただけに、裕子はなんとなくさみしい感を抱いた。それは相手が日本人ではなく白人だからという理由が、まったく当てはまらないという訳ではない。近くにこんなに魅力的な日本人女がいるっていうのに、どうしてわざわざ外国人と結婚しなければいけないのか。
 外国人男性に興味がないという訳ではない。見た目に関して言えば、背が高く目鼻立ちのいい顔をした、さらに厚い胸板を持つそのボディ。
 言葉の弊害とともに習慣や価値観の違いがあるからだろうか、そういう出会いは自分からあえて求めなかった。想像とは違うだろう、そう自分で決め付けていた。

「それでね、国際結婚ってさ、いろいろ書類手続きが面倒じゃない?」
「そうなの?」
「だって、国どうしの手続きになるから何かと――」
「ふーん、たいへんなんだね、結婚ひとつするのも」
 そう言いながらも、結婚してくれる相手さえいれば、何が面倒だろうが構わないのに、と裕子は思った。
「でも小林君、英語ペラペラだからどうってことないみたいよ」
「へぇ、そうなんだ」
 裕子は以外な気がしていた。どことなく頼りなさそうな、どちらかというと母性本能をくすぐるタイプの小林、ましてや英語など流暢に話すところなど見たこともないし想像もつかない。今までよりちょっと離れてしまった小林君という存在。
 裕子は落胆を隠せない様子だった。
「新婚旅行とかって行かないのかな?」
 結婚してから一ヶ月もの期間が経過しているというのに、相変わらず仕事ばかりしている小林であったため、裕子は不思議に思っていた。
「うーん、休んでないんでしょう? 彼、全然」
「そうねー」
「奥さん、怒んないのかしら」
「私が奥さんだったら会社の上司に電話しちゃうかも」
「裕子なら、やりそう」
 総務の子は笑いながら階段のほうに向かっていった。
 小林君の結婚した相手って外国の女性、それも金髪。
 自分の部署のあるフロアーへと階段を登っていった。

「よっ」
 噂をすれば、だ。小林が上の階から階段を降りてきた。
「おつかれさま」
 なんとなくいつもとは違うあいさつをしてしまった。
「おっ、何か今日はやさしいんだね」
 裕子の顔をまじまじと見る小林がいた。
 手元には今から総務に行くところなのか、なにやら英語で書かれた書類を持っていた。裕子は、結婚に必要な書類を準備しているところなのだろうと勝手に想像していた。
「ねぇ、小林君のおく……」
 そこまで言って、裕子は話を止めた。
「あっいや、いいわ」
 裕子はそのまま階段を登っていった。
 小林は、何だろう? といった顔つきでぼんやりと裕子の後ろ姿を目で追っていた。

「ただいま」
 いつもより早く仕事をきり上げて帰ってきた裕子。
「おっお帰り、今日は早いんだね」
 敬之もそのことに気がついた様子だ。
「うん、ちょっと気分が良くないみたい」
「大丈夫? 風邪でもひいた?」
 敬之が心配そうに尋ねた。
「ううん、ちょっと疲れてるだけ、心配しないで」
「ねえ、もうヒラリーって人からメールも来ないみたいだし、この証拠って捨ててもいいのかな?」
 敬之はそう言いながら、近くの本棚の上に置いてあった、偽造為替が送られてきたうす茶色の封筒を手に取った。封筒の表には、ここの住所と敬之の名前が書かれている。
「こんなのもういいよね?」
 敬之はその封筒をごみ箱に放り込もうとした。
「あっちょっ……」
 裕子はなんとなく見覚えのある、その角張った乱暴な書き方。
「あっ、あの時!」
「そうだ、小林と話をしたときに、彼の手元の書類に書いてあったのと――」
 見間違いだろうか?
 もし、彼がこれを書いたとなると、偽造為替グループの一味だってこと?
 まさか――。
「どしたの?」
 敬之は心配そうに尋ねた。
「あっいや、何でもない」
 裕子は何も言わなかった。たとえ、確証があったとしても言いたくなかった。それは敬之に小林君という存在を知られたくなかったということもある。とくにそういった関係ではないけれど、なんとなく話したくなかった。
「ならいいけど」
 敬之は、その封筒をそのままゴミ箱に放り込んだ。

 敬之のいびきが鳴り始めたころに布団の中から這い出た裕子は、寝ている敬之を起こさないように、ゴミ箱から封筒を取り出した。そっと静かに、それを自分のハンドバッグの中に入れておいた。
 いつか会社でちゃんと確認してみよう。
 そのまま布団のなかに戻り、何ごともなかったかのように横になった。
 あの小林君の結婚相手は日本人でない白人女性、そして英語が堪能であること。偽造された為替がこの封筒に入って郵便箱に届けられた、彼のものと似た筆跡とともに。
 裕子は、妙な胸騒ぎを覚えた――。


3

「すみませんね」
 この声――。
「ぅう……」
 声が出せない。
 目隠しをされた目、猿轡を噛まされた口、固くロープで縛られた手と足、肢体には薄手のジャンパーが羽織られていた。裕子は布団に入ったときと同じパジャマの格好のままだった。
 自分がどういう状況、いやどういう犯罪に巻き込まれたのか、すぐには理解できなかった、その声を聞くまでは。

「斉藤さん」
 裕子の勘は当たっていた、これまでの為替に関する偽造は小林の仕業だろう。
 ある程度の推測はしていたが、実際にこのようなことをされたことが何よりも意外だった。会社で知り合ってからそのような素振りなどまったくなく付き合ってきたというのに、それらを裏切るような今回の行為。
 何か別に理由があるのでは?
 いくら偽造為替を現金に換金できなかったとはいえ、自分をこのような目に遭わす理由が分からない。
「どうして、と思ってるんですか?」
 小林が見透かしたように裕子にそう尋ねた。
 裕子は猿轡に遮られ口が利けなかったため、首を縦に振ることでソノ意思表示をした。
「そうですねぇ」
「あなたの彼氏に偽造為替を郵便局に行って換金してもらうまでは、上手くいったんですけど、ばれちゃったみたいですね、結局は」
「まぁ、全体で半分も回収できないぐらいですから」
「あなたが気づいていなければ、そのままメールを送らずに、さようならだったんですけど」
「そもそも自分の勤めてる会社の同期の彼氏にメールを送ったのが間違いでしたよ」
 ガガッ……ググッ……。
 裕子は何やら言いたいことがあるらしく、猿轡を噛まされながらも必死に口をモゴモゴして悶えている。
「何でしょう?」
 裕子の口に噛ませてあった猿轡を少し緩めてあげた。
「うあ……ふー」

「こっ、小林君……だったのね」
「ええ、そうです」
「目的は、何なのよ」
「目的ですか……無いです、いや正確に言うと、知らされていません。私は単なる道具に過ぎないのかもしれません」
「あのメールは海外から来たはずよ」
「発信元のIPアドレスを少しばかり操作させてもらいましたからね。あなたの彼氏が為替両替の『踏み台』にされたように、eメールならばなおさらソレ経由で届けることができますよ」
「じゃ、偽装為替を私のアパートに届けたのも……」
「はい、私です」
「今回の偽造為替の事件は、すべてあなたがやったわけね」
「まあ、実際にやったのは、私になりますね」
 裕子は、小林の立っているであろう位置を座ったまま向いていた、目隠しで覆い隠された視線のちょうど延長線上になるように。
「じゃなんでこんなことをするのよ」
「それはあなたが私の正体に気づいたからですよ」
「何も気づいていない」
「いや、気づいていた」
 小林の声が少し大きくなった。

「確かに少しは小林君のことを疑ってはいたけど、あなたは私がソウ思っているという事を知る機会はなかったはずよ」
「そうですね。私は知らなかったはずです。が、実はあえて、私の書いた英文の書類をあなたに見せたんですよ。そしてあなたに気づかせた、あなたならピンと来たはずだ、さっきおっしゃったように。そして、あなたが彼氏にしゃべらずに、私のことを直接調べるということも期待していました。実際にはその前にこうなっちゃいましたけどね」
「もし私が気づかなかったら?」
「それでもこうしていましたよ。だってこれからあなたは我々の仲間ですから。上の方に報告するのに、何かしらの理由づけがないとね、あなたが我々の秘密を知ってしまったとかってね」
「仲間? 上の方?」
 裕子は何のことかさっぱり分からなかった。
「そうです。私ひとりじゃないんですよ、偽造為替なんていうのはほんの小遣い稼ぎです。本来の我々の目的というか存在価値は……まだ今の段階では言えません」
「私もその一味に加われと?」
「そうです」
「いやよ」
「なってもらいます」
「いやと言ったら?」
「残念ですが――」
 小林の口からそのような言葉が出てくるとは思わなかった。その変貌ぶりをこの目で確かめたかったが、目隠しのせいでほとんど視界がない。

「会社に入った当初から気になっていましたよ、あなたのその美しさと、勝ち気な態度。でもね、通常の恋愛をするには、私としてもそれなりの覚悟が必要なんですよ」
「覚悟?」
「そうです、日本国籍でない私が日本人であるあなたと――」
「別にどうってことないじゃないの国際結婚なんて、実際するかどうかは別として」
「いや、そうじゃないんです」
「私は日本人でないと同時に、スパイですから」
 裕子は、小林のそのあまりにも非現実的な言葉にショックを受けた。
 小林君が外国人? そしてスパイ。
 見た目や日本語の使いっぷりなど、どう考えても日本人そのものではないか。
「ですから、そもそも私の恋愛対象の中に日本人、とくに一般の人は入らないのです。いや、入れられないのですよ」
「で、なんで今の会社にいるの?」
「それはわたしの日本での生活を作り上げるためと、日本人である小林としての人物像を作り出すためです」
「じゃあ、あなたには別の名前と、本当の家族っている訳よね」
「ええ、そうなりますね」
「詳しくは言えませんが、私の両親は両方ともアジア人です。けれどもある理由から、外国に移住しました。そして私が生まれた」
「そうなの。これまで小林君のこと普通の日本人って思ってたから、ちょっとショックで……わかったわ。で、どうして私のことをそのスパイにさせたいわけ?」
「それは……」
 小林は返答に僅かばかり悩んでいた。
「私を仲間に入れるために、その理由を作るために、わざわざ私にあなたの筆跡のわかる書類を見せたんでしょう。ただ、実際には私が行動を起こす前に、こうやって強引に拉致した」
「そうなりますね」
「他にも訓練を受けた女のスパイなんてたくさんいるじゃない? わざわざ私に火の粉を向けるなんて筋違いよ」
「そうですか」
「そうよ、勝手だし、そもそも私には敬之っていう同棲してる彼氏がいるのよ」
「あっ、そういえば彼は……」
「安心してください。しばらく眠っておいてもらいます。朝になったらいつものように起きるでしょう。ただし、あなたの気持ちしだいですが」
「わかったわ、どうしても私をその仲間にしたいわけね」
「ええ」
「でも私は日本人だし、家族だって日本に住んでる。私がいなくなったら大騒ぎするわ」
「それは心配ないと思いますよ。とりあえず、斉藤さんの部の上司には、私と一緒に海外への長期出張といって届けてありますし、そこで事故にあうかどうかは――」
「ああそう、もういいわ」
「ふーっ、えらい人の同期になっちゃったものねぇ」

 小林のことを案外嫌いでもなかった裕子は、こいつの言うとおりにスパイ活動に加担してやろうと思っていた。ただ、そもそも裕子の彼氏である敬之が、小林の属する組織に、偽造為替とはいえハメられそうになったのだ。
 どう転ぶかは分からないが、100パーセント信用できる相手ではない。
「それで、あなたはこの日本の地で何をしようというの? いくらそれがあなたの仕事とはいえ、何かしらの恨みでもない限り、人を傷つけたりすることはつらいはず。何があなたをそこまで追いやったのかしら?」
「どうしてそんなことを聞く? あなたには関係ないだろう」
「関係ないこともないわ。少なくともあなたに加担するためには、その理由というものがはっきりしないもの。私だって人間よ、ロボットみたいにはできないわ。それに少しだけあなたに興味があるの、だから聞かせて欲しいわけ」
「そうやって、われわれのことを詳しく知りたいわけか、それとも私のことを誘惑すると見せかけて隙をつくつもりか? まあいいだろう」

「さっきも言ったように、私の両親は日本ではないアジア圏から海外に移住した。そしてそこで私が生まれた。私はその国の国籍を持ち、その国の言語と習慣によって育った。が、アジア系移民という両親を持つ私の身分は、ネイティブの人間からすると彼らの仕事やら文化までもを脅かすのではないかという危惧のせいか、完全に安定したものではなかった。歴史的な背景とかあるのかもしれない、各国との外交的な政策というものが存在したかもしれない、あるいは本国内の政治的な理由、そして宗教的なものもね」
「私にとってはそこが唯一の祖国なんだ。だけれども、周りの人間のわれわれに対する見方は異なる。特にその国の外交的な施策によって状況が変化する場合はね。そのほとんどが同じ民族である日本人にはなかなか分かってもらえないかもしれない。生まれつき背負っている根本的なものは変えようがない」
「そうね、直接的には理解できないけど、なんとなく分かるわ、その気持ち」

「それで私は国籍を持たないことにした、実際に持たないという訳ではない、そういった概念を捨てることにしたんだ。いちいちどこの国の生まれだとか、どこの言葉を話すとか考えるのが面倒になった」
「そしてスパイと言われる身分になった。その身軽な身分は一度なってしまうとどうってことない、気楽なもんさ。他人になりすまし、都合が悪くなったらまた別の人間に乗り換える」
「だからスパイってわけ? あんまり理解できないけど、あなたの人生でしょうから、どうぞご勝手にっ、て感じだわ」

「それで――斉藤さんはどうしますか?」
「どうせ選べないんでしょう?」
「ま、そうですが。共感して頂けたかなと思いまして」
「共感はできないわ、だからって為替を偽造したり人を傷つけたりする理由にはならない。ただ、今の私の置かれている立場としてやらなければならない仕事があるのなら手伝ってもいいけど」
「分かりました。いずれお分かりいただけると思います」
 小林はそう言うと、裕子の目を覆っていた目隠しを解き、手足を縛っていたロープをナイフで切った。

「ふーっ、痛かった……」
 どこかの地下だろうか、あまり大きくない部屋の中央に裕子は座っていた。窓がない。
 心地いいぐらいのひんやり感が、裕子の手足の指先あたりをくすぐっていた。
「我々を裏切るような行為をした場合には、分かっていますね?」
 小林は念を押すように裕子を睨みつけた。
「ええ、分かってるわよ」
 どういった組織なのか詳しくは分からないが、逃げるつもりなどなかった。
「まずは、何もしないで下さい」
 小林は真面目な顔で裕子を見て言った。
「はっ?」
 考えていた発言とはほど遠い内容だったため、裕子はあっけにとられた。
「何もしないって?」
「ええ、何もしないで、そのまま生活を続けて下さい。斉藤裕子として」
「はぁ」
 裕子の思い描いていたスパイ像とは異なっていたため、拍子抜けした感じだ。
「意外かもしれませんが、普段はまったく通常の人間と変わらないんですよ。そして映画とかテレビで見るような殺しなどもめったにないんです。そうですね、会社というわけではないな……同志……いや、信頼できる友人、とでも言えましょうか」
「そう」
 知らないうちに夜中に拉致されて、こうやって強引にスパイ活動とやらに加担させられて、それを信頼できる友人関係、と表現できる小林の神経を疑った。
「でも、こういうことはする訳ね」
「まぁ、今回は特別です」
「そうなの」
「ただ我々の組織の利益のために、動いて欲しいときに何かやってもらうだけです。それ以外のときは通常の生活と変わりませんよ」
「身内とかには?」
「もちろん、言ってはいけません」
「無理よ」
「いえ、できます」
「女性の場合には、こういった肉体的にどうこうといった危険な仕事はないです。変わりに欲しい情報を持っている男性に近づいてもらうことはあります。それは覚悟しておいてください」
「なるほど、色仕掛けで情報を盗めってことね。そんなこと本当にやってんのね」
「手法は地味ですが、そのリスクに比べると効果が高いですからね」

「ただ、女性として覚悟しておいて頂きたいのは……」
 小林は今までとは異なる曇った声で言った。
「わかってるわ」
「すいません」
「謝らないでよ、あなたがこう仕向けたんでしょう?」
「はい」
 裕子はなんとなく苛ついていた。
 くそっ、そういう言葉しか出てこない。

 そんなことが出来るのだろうか、敬之にも内緒にしておくという。彼にこのことを言ってしまうと、自分と同じような境遇に巻き込んでしまうということになりかねない。
 まったくの一人身ならば、むしろ楽しめたのかもしれない。
 こんなことを考えてしまう自分も情けなかったが、20代後半にもなり、自分の人生に対して何となく閉塞感を抱いていたことも確かなのだ。

 そろそろ空が明るくなっていた。
「では、期待していますよ」
 小林はそう言うと、入り口のドアを大きく開けた。
 階段の上の方から、薄暗い光がドアのところまで届いた。部屋に窓がないせいか、それまで、どんよりとしていた重々しい空気が一新され、新鮮ともいえる清々しい空気が、裕子の今までの苦しかった呼吸を少しだけ楽にさせてくれた。
「この場所は、誰にも漏らし……」
「わかってるわよ」
 遮るようにして言った。
「ふーっ」
 それまで、拉致され監禁されていたとは思えないような、すがすがしく、そして開き直ったような顔をした裕子がそこにいた。


 (約1年後)

 『斉藤さん、すみませんね』。
 それが、小林から斉藤に仕事が依頼されたときのパスワードだ。
 小林の手先となることを承諾、いや無理やりそうさせられた感のある裕子であったが、いざやってみると意外とというかたいした事ではなかった。

 あれから1年が経過し、依頼された仕事は今回も含めて3件。一番最初の仕事は、都心に勤めるとある人物が、北のスパイもしくは協力者ではないかということを探る仕事だった。自分と似たような境遇にある人間を探りあう、ちょっと気の引ける仕事ではあったが、どちらかというと自国民に役にたつのではと思い、わりとすんなりできたのだ。そしてある程度の報酬も受け取ることができた。

 ただ、これらの仕事で一番つらいと感じたのは、仕事そのものではない。近づく人物を裏切らなくてはならないこと、つまりその人物に対して何らかの感情を一切、抱いてはいけないことだ。その割りきりがどうしても難しい。
 裏切ると最初から分かっているスパイの仕事のほうが、どっちつかずの会社という社会の中の仕事よりも、情という感情を引きずらない分、諦めがついていいのかもしれない。
 裕子は小林の言っていたことがなんとなくわかった気がした。

 小林から小さなメモを渡された裕子は、何事も無かったかのようにデスクに戻り仕事を続けた。
 敬之との生活にこの秘密を持ち込みたくなかった裕子は、小林との連絡は必ず会社内のどこかで行い、その内容を見るときも同じく社内の化粧室と決めていた。そして、見終わったメモは、会社近くの公園にあるベンチ横の灰皿で燃やすことにしていた。
 敬之はあの晩のことですら、まったく気がついていないみたいだし、裕子が小林というスパイの手先となっていることも知らない。

 会社内では一人のОLであり、また小林の手先である裕子、そして自宅に帰ると、敬之の良き同棲相手という仮面を上手く使い分けていた。
 彼氏が二人いると思えばいいことではないか。敬之に対して申し訳ないという思いはある。が、こうなってしまったものはしょうがない。とはいえ、小林とそういう関係になったことは一度もない。自分からソレを望むようなことを仕掛けなかった訳でもない。そして、本心がそうさせたのかどうかも自分でもわからない。

 ただ今は、余計なことは考えずに、仕事を完璧にやり遂げるだけだ。中途半端な気持ちでやっていては、必ず墓穴を掘ることになるだろう。

 小林からメモを受け取った裕子は、見覚えのある住所と名前が、そこに書かれてあることに気づいた。

         都内A区1-2-5 二宮敬之
           敵工作員ノ可能性アリ
             情報オクレ

 どちらかの男、そして、どちらかの立場を選択する時だった。



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