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ラーメンアーカイブ人形町大勝軒⑥

~ 花街での出会い ~

大勝軒の歴史は、初代の渡辺半之助さん(1858年安政5年7月9日生まれ。明治43年6月4日52歳没)が明治38年に屋台を引いていた林仁軒(ニンケンさん 明治18年1885年生まれ。昭和25年1960年没)と出逢ったことで始まる。出会った場所は浅草。

浅草は六花街のひとつとして数えられた華やかな街の社交場である。六花街とは、

・芳町(現・日本橋人形町の一部)
・新橋(銀座)
・赤坂
・神楽坂
・浅草
・柳橋(浅草橋)

※柳橋花街が消滅後は向島を入れて六花街と呼ぶ。
引用:Wikipedia

のことである。銀座7,8丁目や赤坂はそのまま繁華街として発展したのでイメージしやすいだろう。芳町や神楽坂や浅草にはまだ検番が残っており、芸妓が修行を重ねている音や姿をわずかに知ることができる。

人形町(芳町)では定期的にお座敷体験の
イベントを行っている(筆者参加時)


そもそも花街は芸者屋、遊女屋が集まっている地域を指す名称である。売春防止法(1957年施行)までは多くの花街に芸妓と娼妓の両方がいたが、今日花街と呼ばれている地域は芸妓遊びのできる店を中心に形成される区域である。

東京は他に多くの花街があった。玉ノ井、八王子、四谷荒木町、渋谷円山町の他に東京四宿などがあり、23区中21区に花街があったと言われている。

また、花街は三業地であることが多い。三業地とは芸妓(げいぎ)屋、待合(まちあい)、料理店からなる三業組合(同業組合の一種)が組織されている区域のことで営業許可が与えてられていた区域のことである。遊びと食事は常に隣同士で、そこに人は集まった。

~ 人形町大勝軒開店に向けて ~

油問屋だった渡辺半之助さんと林仁軒さんが出会ったいきさつについては不明だが、粋な社交人だったと言われる初代半之助さんの様々な人脈の一人だったと考えるのが自然だ。社交界は、「人は多いが世界は狭い」。きっと興味のある方向へと人と情報は自然に集まっていったことだろう。

唐突だが、日本橋よし町というお店があった。すでに閉めてしまったが、(人形町)大勝軒の料理長を長く務めた楢山泰男さんが腕を振るったお店だった。

日本橋よし町(閉店)の入口にあったもの

その店頭に

「明治38年創業の日本橋は人形町芳町検番の裏手にあった大勝軒総本店」

と書かれていたことを覚えている人がいるかもしれない。冒頭1912年創業が諸説ありとしたのはこういった記録がいくつかあるからだが、そこを明らかにするのがここの目的ではない。あるいは、この年は任軒さんと半之助さんが出会った年を表しているのかもしれない。

日本橋よし町(閉店)外観

~ 昔ながらのラーメンとは ~

オーナー自らが料理をするというより、南京街やこうした屋台を引いて腕を磨いた料理人を、自らの店に招いて料理を作らせ、提供することが当たり前にあったた時代。今よりも個人店の割合はグッと低く、こうした大繁盛店が文化を作っていった。ましてや『ラーメン』という新しく未知なるメニューである。

あの来々軒も、後に大森で独立し、翌年祐天寺に来々軒祐天寺店を出す傅興雷(フコウライ)など多くの料理人が厨房に入っていたと言われている。来々軒最盛期には10人もの料理人が在籍していたという。

ラーメン店=小ぢんまりとした個人店というスタイルはあくまで戦後主流となったものであって、当時はやはり大箱で宴会なども催せるお店が主流なのだ。昔懐かしいチャルメラスタイルだけが、昔ながらのラーメンではなく、折り目正しい広東料理の、看板メニューで華やかな人気商品だったものが、そもそも昔懐かしいラーメンなのである。

そう考えるとラーメンが、日本人が突如発明した ものではなく、日本人に合わせた味付けを中国人と一緒に作り上げた料理であることを改めて実感する。1910年前後をを紀元とするラーメンと以後ラーメンはこうして線で繋がっていき、100年の歴史を重ねることになる。

つづく

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