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【中村屋】 〜 20周年ラーメン 〜(1999年編①)


1999年に開業した中村屋はすべての面でカッコよかった。

1990年代。当時のラーメンたちがラーメンというジャンルの枠に窮屈さを感じ、殻を破ろうとしていた時代。その中で96年組と言われるお店たちが誕生する。新宿に「麺屋武蔵」、中野に「青葉」、そして、横浜に「くじら軒」。この他にも現在名店と呼ばれるお店たちが開業したが、味、コンセプトなどとともに、魅せ方の部分で既存の考え方に一石を投じ、新たな提案を行ったお店たちがこの3店だった。

くじら軒のラーメン(センター北)
提供元:RETURN OF THE FUNKY 麺

その中でくじら軒が示した世界観は、その後神奈川のラーメンシーンに大きな影響を与え、洒脱で端正だが、心に残る神奈川淡麗系という形で実を結ぶことになるが、中村屋が颯爽と登場した背景は、まさに淡麗系という流れを決定づけたこの地点にあった。

中村屋の外観(高座渋谷時代)
提供元:しらすさん

ラーメンを作ることが、商売として成功することや、味の自己表現の追求としてだけではなく、多くの人の注目を浴び、一種憧れられる魅せ方をしたのも中村屋だった。天空落としという独特の湯切りは、その象徴で、そのスタイルは一貫してカッコよかった。

天空落とし呼ばれる湯切り


その後中村さんはいろいろな店舗展開を模索し、現在はニューヨークでラーメンを発信し続けている。この30年余日本の経済が停滞、下降し続ける中で、ラーメンはその大衆の味方で有り続けたが、あの90年代のようにその“枠”にラーメンは少し窮屈な思いを強いられている。「1,000円の壁」という議論が生まれるところに、ラーメンがいかに多くの人に愛されているのかの証左があるが、そんな1,000円以下ラーメンという求められ方に悲鳴をあげだしたラーメンを解放しようとしたのも中村さんだった。

だしかけ(塩)


中村さんが配信するYou Tubeチャンネル『Ratube』はどのラーメン関係のチャンネルよりも情熱的で、常に新しいことへのチャレンジと問題提起を繰り返している。

ニューヨークでも人気を博すラーメンは、愛され方こそ同じだが、価格は日本の相場と違い段違いに上がっている。ラーメンの味の奥深さや幅の広がりと同様に価格も当然幅があっていい、という当たり前の事実は、日本に住んでいないからこそ特異に見えることだろう。結局のところ、適正価格というのは懐事情によって違うのだ、という経済の原則があり、それを無視したところにラーメンを押し込めてしまったことに、日本もようやく気付いてきたと中村さんは訴える。

その中村屋は海老名に長く店を構えていたが、2022年2月13日に建物の老朽化に伴う立ち退きにより休業となった。惜しむファンたちで連日行列を為したが、その中には、厨房に立つ中村栄利をひと目見ようとする人たちも多くいたことだろう。普段ニューヨークにいる中村さんを生で見たいということもあるだろうが、天空落としを行うカッコいいラーメン店主をみたい、という純粋な気持ちが行列から溢れていた。そういった意味ではご当人ラーメンの象徴でもあった。

また、きらびやかな丼を“自分のもの”にすることは難しいが、中村屋はそれをやってのけた。ラーメンといえば白磁、青磁のシンプルな丼に店名を入れる(昔は出前が多くあり、器がきちんと返ってくるようにするため)くらいだったのが、それをカッコよく定着させた。ラーメンの丼の中身(ラーメン自体)は圧倒的な情報の共有を頼りにその後も前進していったが、それをどうして多くの人に知ってもらうのか、ということも同じくらい大切で、それを実践したのも中村屋だった。

醤油ラーメンと中村屋特製の丼


味も時代背景を背負いながら、ヴィヴィッドに現代にも映える普遍性を兼ね備える。最先端の情報と技術が最良の味を生むわけではなく、その時代々々で最上のものは必ず残っていく。こういったものを良い意味で「時代を感じさせる」と僕は呼ぶようにしている。文化的な価値を持たせるために。

多くのファンにとって淡い想い出の味だったに違いない中村屋のラーメン。今回の休業が中村屋にとって第何章にあたるのかは分からないが、常に新しい価値観をラーメンを通して生み出そうとする中村屋の未来はラーメン業界の前途でもある。そう言い切っても決して大げさではないだろう。

食べ終わると中村さんは、必ずお客さんの目を見て「ありがとうございました」と言う。どんなブームを起こしても、どんなに褒められようとも、ラーメンの未来を見つめる目は力強く、そして、お客さんを向いている。

多くのファンに惜しまれて海老名の中村屋は休業に入った

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