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ラーメンアーカイブ人形町大勝軒②

~ 三大大勝軒 ~

人形町大勝軒は1912年(大正元年)創業とされる。当時の様子を描いた書籍などをみると明治時代に存在したと書かれているものもあるが、創業家に確認しても1912年ということだったのでここではこの年を創業とする。

大勝軒は、

・人形町大勝軒をルーツに持つ大勝軒
・東池袋の系譜に属するもりそば(つけ麺)が有名な大勝軒
・煮干しが利いた永福町大勝軒を総本山とした大勝軒

の3つの系譜があると語られることが多い。その内、もりそば(つけ麺)の東池袋大勝軒の圧倒的な露出により、世間にこの屋号が定着したわけだが、それぞれの系譜が確固たる地位と個性を築き、それぞれのファンの心に残り続けている。

その三大大勝軒と呼ばれる系譜の中で最も歴史が古く、戦前の創業であるばかりではなく、日本で最初にラーメンブームを興した店とされる1910年創業の浅草來々軒から2年後に誕生したのが人形町(芳町)大勝軒である。時代背景を考えると來々軒の(繁盛に)影響を受けたということは想像に難くない。

~ 1910年代とラーメン ~

広東料理における汁そば(=南京そば。基本的に塩味がベースであんかけがかかったものも多かった)を提供していた店、例えば南京街(現在の横浜中華街)にあるような中華料理店や、現在はラーメンを提供しているが、当初は別の業態で、後々(戦後など)にラーメンを提供するようになった老舗を除くと、1910年代に「ラーメンを提供していた」店で記録に残っているものはそう多くはない。

ラーメン博物館に出店している來々軒をモチーフにしたラーメン

例えば奥多摩湖畔に今でもあり、抜群の存在感を放っているのんきやは1916年の創業。(手打ち)蕎麦屋の側面もあることを考えるとどの時期から中華そばを始めたのかは不明だが、かなり古いことは間違いない。また、生駒軒も古いが、創業当時は児玉製麺所という製麺業が主で、そこから生駒軒一号店がどこでいつ開業したのかなどの起源はハッキリとしていない。確実な記録として残っているのは神田にあった巴家料理店で1919年(大正8年)の創業だが、2019年に惜しくも閉店してしまった(移転先を探しているという話もある)。ただ、巴家も「廣東料理」と看板にあったように、広東料理をベースにして繁盛していったお店である。

ラーメン博物館にある当時の店舗を再現したもの

~ 広東料理と支那そば屋 ~

広東料理なのかラーメン店なのか街中華なのか、という定義は、後年、整理のため便宜上つけたようなものであり、その実境界線はなく、現在に至るまで曖昧であると考えるほうが自然である。お店からしたら、いかにして繁盛させるか、というシンプルな悩みがただそこにあるだけで、ジャンルやカテゴリーーは混然としていただろう。実際、來々軒の当時の写真を見ると『支那御料理』、『支那蕎麦』、『廣東料理來々軒』などと謳っており、その中に日式のラーメンが超がつく人気メニューとして存在していたと読み解くことができる。

~ 浅草來々軒 大繁盛の背景 ~

ただ、1910年から1912年の、つまり來々軒から人形町大勝軒が生まれる2年の間に來々軒に影響を受けた、もしくは來々軒以前にも日式のラーメン(の原型)を取り扱う店が他になかったのかという疑問は残る。そう想像したくなるくらい当時の來々軒の繁盛しており、それは相当な数、記録として残されている。もう一度ラーメン博物館のHPを参照しよう。

「來々軒」の創業者・尾崎貫一氏は、豚臭さや脂っぽさを日本人好みにアレンジしたメニューを開発し、繁忙期には1日2,500~3,000人が来店し、「來々軒」は当時の新聞などに「大繁盛」「圧倒的に美味しい」と紹介されていたんだとか!

「日本のラーメン発祥の店」がどこなのか、ということはまだ諸説あり、正確な文献も見つかっていないため、未だ分かっていないそうですが、新横浜ラーメン博物館では、長年にわたる調査研究の結果、

・來々軒のオープン当時、“ラーメン店”という業態は存在しなかったこと
・「支那そば」「ワンタン」「シウマイ」という大衆的なメニューを安価に販売する新たな業態を広めたこと
・來々軒に似たお店が日本各地に増えたこと
・洋食レストランでもラーメンを提供するようになったこと

などから、來々軒を「日本のラーメンブームスタートの店」と結論づけた。
ラーメン博物館HPより

「圧倒的に美味しい」とは一般的に比較対象があっての表現方法であり、仮に比喩的なものだとしても読む人が納得するような事実に基づいた表現であるとするならば、他にも多く同類のお店があったことは間違いない。現在から過去をみたときに、來々軒と大勝軒しかなかった、わけではなく、他にもいろいろとお店はあったが、支持され、ずっと残ったお店がその2つをはじめとしたいくつかの店であるある、という事実から入ったほうがいいということだ。

また、小菅桂子の著書『にっぽんラーメン物語』にはこうある。

(來々軒の)コックは十三人!しかも、南京街出身の広東料理の中国人コックばかりである。さらに下働きに日本人が五、六人いたという。

(中略)

來々軒の営業時間は午前十一時から夜十一時まで。正月ともなると一日に二千五百人からの客がつめかけ店は大繁盛。なにしろ客が千人を超すと五十銭入りの大入り袋が出るので、従業員も一層活気づいたという。
小菅桂子「にっぽんラーメン物語」
戦前系の象徴シュウマイ(ラーメン博物館來々軒)

~ 戦前のラーメンと戦後のラーメン ~

実際の支那そばがどういうものだったかは、また後に触れることとするが、様々な文献をみても、大いに繁盛していたことは間違いなく、その影響を受けて広東料理や現在のラーメン店・中華料理店を開こうとした人がまわりもっといてもおかしくはないと思われる。視点を当時に落としてみると、その中でとりわけ(立地的にも)繁盛していたのが來々軒で、そして、その後誕生する人形町大勝軒であった。ラーメンというジャンルにだけフォーカスすると、当時の状況というのはあくまで想像する他ない。ただ、そのときに自分が一人の腹を空かせた群衆の一人だったとすると、ラーメンを安価に提供するお店を求める気持ちは今以上に生まれやすい環境にあった、つまり、時代に求められていたメニューであったと言えるだろう。

來々軒や大勝軒が提供していたラーメンは、広東料理をベースにした日式のラーメンであるが、その中身について、味の構成にだけスポットライトをあてても歴史は立体化してこない。時系列で考え、ラーメンの歴史において戦前と戦後の世界観が大きく違うこと、戦前のラーメンと戦後のラーメンには大きな分断があることを意識してみるといいだろう。その分断は時代が(戦争によって)分断されたからない他ならないわけだが、日本人が好むラーメンはそこで線が切れてしまっているわけではない。人形町大勝軒は戦前系であり、多くの派生店を排出していくことになり、またそれらが戦後も形を変えずに残っていた。その流れを考えると、大戦をまたいで残った大勝軒という屋号を、戦前と戦後を繋ぐ架け橋として今一度見つめ直してみることがラーメン史全体を俯瞰で見る重要な視座になるのではないだろうか。

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