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ラーメンアーカイブ来集軒③

~ 埋もれていた来集軒一号店 ~

来集軒の一号店はどこで誕生したのだろうか。

現在の浅草店で聞いた話の違和感を端緒に、ネットにある画像や公式HPのヒントをもとにある仮説を立てて、埼玉加須市へと向かった。そのヒントとは来集軒製麺所から独立した卯都木豊松が後に加須に店を構えたという点である。そこにルーツがあるだろうという仮説であった。

加須に2店ある来集軒のうち、より古い元町店のメニュー冒頭にいきなり答えが書かれていた。

「昭和3年東京都台東区入谷277番地、来集軒一号店として開店しました。昭和16年に現在の加須市元町に移転以来伝統の東京ラーメンの味を守り、多くのお客様に愛される店作りをしています」

出典:来集軒 加須元町店メニュー

製麺所誕生から18年。製麺所に従事した卯都木さんが満を持して飲食店として店舗を構えたのが入谷277番地だった。この番地は現在はなく、古い地図で見るとこのあたり(緑の網掛け部)ということになる。

古地図より

それを現在の地図に照らし合わせてみるとこのあたり。西浅草から北西に進んだあたりの入谷駅にほど近い、また、より西浅草、千束により近い場所だった。

Google Map

現在の大正小学校から少し南に進んだこの一角にあったということになる。

Googleストリートビュー

豊松はこの地で得た手応えを、もっと栄えている場所への移転という形で具体的なステップアップに転換したいと考えていた。ただ、来集軒製麺所により近い西浅草に大きな本店『来集軒 浅草合羽橋総本店』が誕生するのはもう少しあとの話である。

~ 来集軒 浅草合羽橋総本店 ~

総本店があったのはかっぱ橋本通り。1801年創業駒形どぜう(どじょう)の名店「飯田屋」の右隣の辺りだったという。それは来集軒製麺所の至近ということになる。また国際通りに面した現在「浅草今半 国際通り本店」がこの現在の場所で創業したのが昭和3年であり、そうすると、飯田屋と浅草今半の間にあったということになる。今思えば壮観のラインナップである。

来集軒 浅草合羽橋総本店があったと思われる場所
Google Map

更に加須元町店で聞いた話は続く。

総本店は料理人(弟子)を多く抱えた大箱の中華料理店だった。現在ラーメン屋の店舗イメージは、どちらかというと戦後多く誕生した個人店を想起するため、小ぢんまりとした店舗になりやすいが、戦前は2階に宴会場などがある大型の中華料理店であることも多い。来集軒も街中華というよりは中華街などにあるような中華料理店であったということだ。

土地はまだ余裕があり、競争は激しいが現在のように飲食店の供給過多になっているわけではない環境で、(立地的にも)集客には困らないとなると必然的に店舗は大きくなっていくのである。来集軒総本店も大型の総合中華料理店だったというのだ。

~ 加須店の出店と総本店料理長 ~

加須元町店のメニューに記されているように、この後卯都木豊松は実家のあった加須にお店を出すことになる。戦後1947年(昭和22年)のことである。1941年(昭和16年)に太平洋戦争が始まると、豊松は店を畳み、一家六人を連れてリアカーを引いて加須まで徒歩で疎開した。

その後誕生した総本店だが、実は実弟の卯都木常三が開業時に料理長となっていて、経営、運営は安泰であった。浅草は人口が増え、サービスや娯楽が加速度的に増えていく時期である。質の高いものを提供さえすれば、自ずと商業的成功は確約されるといっても過言ではない。ちなみに、常三はこの後来集軒のキーマンとなる。

戦前の浅草六区の様子
引用:Wikipedia

戦前の浅草の活気は想像する他ないが、小菅桂子の著書「にっぽんラーメン物語」の一部、かの浅草来々軒を語る一節を引用しよう。

(浅草来々軒は)コック十三人、しかも来々軒のコックは開店以来、南京街出身の広東料理の中国人コックばかりである。くどいようだが、場所は浅草、来々軒はそれも町場の中国の一品料理屋である。そこに十三人!現在考えても、町場で十三人ものコックが働いている中国料理屋はそうあるものではない。しかもいずれもプロの料理人で、下働きの日本人は別に五、六人いたという。この数!来々軒の創業者である(尾崎)貫一さんのメモは、いかに繁盛していたのかを証明してくれる。

出典:「にっぽんラーメン物語」

現在でも人気の観光地浅草だが、当時の活況は当時の写真だけを見ても伝わってくるが、観光地という一言では表すことのできない一大商業地だったことも窺える。当然文化も人も産業も育つ。その中に来集軒総本店はあったということだ。

つづく



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