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ラーメンアーカイブ来集軒⑨

〜 南千住来集軒から破門まで 〜

三野輪万蔵と(珍來創業者)清水清は既知の間柄で二人でよく遊びに行っていたという。一方、若い河野は当時給与が700円でまだまだ貧しく、それが羨ましかったという。師匠が厳しく酒はやらなかったが、遊びの真似事をして借金を2万円も作ったと笑っていた。このルーズな金銭感覚は後に問題を起こすことになる。

河野はまず浅草総本店に入り従事する。当時は卯都木常三さんもいたが加須から来たコクブさんという方が現場を取り仕切っていた。教わったのは支那そばとシュウマイ。クズ肉を挽きシュウマイにし、いいところはチャーシューにし、残りはスープにした。まかないで食べる支那そばが当時考えうる最高のごちそうで、それを毎回3杯食べて周囲を呆れさせたという。

当時の修行は見て学ぶというのが主流で、河野さんは来集軒の他、近隣の生駒軒や萬来軒なども覗いていろいろな技術を盗んだという。それが後の堀切来集軒を形作っていくのだが、それはまだ少し先の話。

その浅草での修行後、八広のお店を経て(河野さん本人は八広のお店をカウントしていなかったので人手が必要だった際の手伝い程度だったのだろう)、日本堤のお店を任される。日本堤の店、とは八広のみっちゃんの話で、正確な住所でいうと清川。山谷地区にいまでもある来集軒である。

南千住の来集軒
もちろんシュウマイもある
画像の提供はいずれも yae軒


この店舗は、その以前に何人かが店を切り盛りしていたが、なかなか上手くいかず、河野さんがやることになった(その手前に大家があり、本店の息子さんが経営を任されていて、現在はそのご家族が営んでいるという)。山谷地区ではあったがお客さんはみな優しく、商売も順調にいったが、じきに娘が生まれ、環境が(山谷地区だと)あまりよくないと思い、本気で独立を考えるようになったという。

この頃の河野さんのお店で修行をした方のお店が、吉祥寺にある。「スタミナラーメンのぶちゃん」というお店だ。この店の女将は河野さんの親戚で年に数回いまだに会うことがあるという。漫画家の江口寿史氏も馴染みだという街中華で、家族経営の古き良きお店だ。その当時のメニューを彷彿とさせるようなものはなかったが、廉価で、しかし、手間暇をかけた素晴らしい味のお店だった。

のぶちゃん外観
江口寿史氏も通う
ラーメンはいまだワンコイン


~ 独立と来集軒破門 ~

結局浅草店も含めて計10年8ヶ月来集軒に務めた後、亀有で独立を果たす。順調に繁盛していたが、その後亀有に独立した際に買ったビルが、地価の高騰により3億円で買い手がついた。

「調子に乗りましたねえ」

その金を元手に商売を広げようと来集軒とは違う屋号の店を立ち上げる。店名は奥様の名前をとって「光華楼」にした。街の中華屋より少し高級路線のお店で河野さんがやってみたかった店だったという。

堀切来集軒のメニューの多彩さは様々な経験による

しかし、それが来集軒本店の逆鱗に触れ、来集軒という名前は使用不可になってしまう。こういった河野さんの向こう見ずな性格は、逞しさと同時にリスクを負うが、この場合は悪い方に出た。

来集軒という看板が使えなくなり、仕方なく店舗展開は「大来軒」という名で行うことにした。大来軒の名の由来は、単純に来集軒に近い名で、というもので、いかにも来集軒という屋号への名残惜しさが滲み出ていた。その大来軒は最終的に27店舗も展開したが、結局うまくはいかなかった。10億円のも借金を背負い自己破産。現在は西亀有や足立区六木などわずかにその名を残すのみとなっている。

現存する大来軒
河野姓も見える
画像提供:kt

~ 来集軒復活から現在へ ~


堀切店の表看板

転落した河野さんを救ったのも来集軒だった。閉める店舗の整理をしていた際に出てきた一つの書、中国の方が書いたという『来集軒』の看板をしみじみと眺め、恩は忘れるべきではないと深くうなだれた河野さんは、心を改め、総本店に頭を下げに行き、再び来集軒の屋号を使うことを許される。そうして開業したのが堀切なのだ。

大切に飾られる『来集軒』の書

現在営業は一流ホテルで修行をした経験のがあるという息子さんと一緒に行っている。最近息子さんは近所に「デリカ グルマン」というお弁当(お惣菜)屋を開店しているように、来集軒の営業の今後はまだハッキリとしているわけではない、と寂しそうに語る。

これまで関わってきた来集軒で共通した看板メニューは支那そばシュウマイ、そして、これもだったんですよ、とチャーハンを勧めてくれた。逆に自家製の麻辣油がきいた麻婆豆腐などの多彩なメニューは、来集軒だけではない光華楼や大来軒、もしくは長いキャリアの中で河野さんが培ったもの(や息子さんの協力もあってのもの)がすべて詰まっていた。

長きに渡り来集軒に携わり、一度看板と信用を失って、また取り戻した河野さんの来集軒を語る口調には深い感謝と愛情が感じられた。そして、来集軒の名を取り戻そうと決心させてくれた先の書は、堀切の店舗の大きく黄色いファサードの下にあり、今も河野さんを守り続けている。

つづく
(次回で終了)

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