見出し画像

invitation:ラーメンの語り部が減った

ラーメン評論家の故・北島秀一さん(2014年没)が食べ歩き30周年を記念して(当時)赤坂にあった69'N'ROLL ONEでイベントを行った。2013年のことだ。亡くなる1年前のことで今思うと貴重な機会だったが、大勢の方が次々と北島さんと話したいとまわりをとり囲んでいたので、立ち話で、そう長い時間話すことはなかった。ただ、その短い時間の中で交わしたいくつかのやりとりの中で私を突き動かす言葉、いや、表現があった。

「ラーメンの語り部が減ったね」


語り部とは、Wikipediaによると

「昔から語り伝えられる昔話、民話、神話、歴史などを現代に語り継いでいる人を指していう。語り手と呼ぶ場合もある。古代の日本においては品部の職業部として置かれた職掌であった。また現代の日本においては話芸を中心とするタレント、あるいは災害や事件の教訓を語り継ぐ活動を行う者を「語り部」と紹介する例が見られる」
Wikipedia

とある。このときに北島さんが言い表したかったものは大きな枠で現代的な語り部のことだったと思うが、それよりももっと「情報の羅列ではなくラーメンの風景を語り、その文化を根付かせていくこと」ことだと思った。

それは難しいレトリックや表現を用い、文学的にすることではなく、また、情報を否定するわけではないが、知識としての情報だけではなく、五感から得られる情報を総合して物語にしていくことなんだな、とその帰り道、勝手に解釈したものだった。

語り部の本質的な意味合いは、Wikipediaの前半のあるような「昔から語り伝えられる昔話、民話、神話、歴史などを現代に語り継ぐ」ことであり、そういった意味ではラーメンの史(事)実をアーカイブすることは語り部の一部を担ったことになる。

徹底的に検証し、様々な文献から事実を導こうとすることは尊い。誤った認識を正すことや新たな発見をし興奮する、といった歴史ロマンである。ただ、ラーメンの中心になるのは味であり、それはかなりパーソナルな体験である。ただの情報の羅列から得られる知識にもっとも足りない要素は味の興奮であり、それが愛されるという前提の事実である。

僕がこの語り部に深い関心を抱いたのは、この両輪が回っている状態のことであり、『ラーメン愛』と抽象的に表現されるものの正体を明らかにしつつ、それが庶民の歴史にとって最も不可欠な要素なのだと思うに至った。歴史だけではなく、味の解説だけでもない、個人的な体験を歴史の中から引っ張り出してくる作業。それが語り部の果たす役割なのではないだろうか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?