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ラーメンアーカイブ来集軒⑤

~ 卯都木常三というキーマン ~

浅草合羽橋総本店が開業したときに総料理長に就任したのが、卯都木豊松の実弟常三である。

特に浅草区は戦争での被害も大きく、製麺所は残ったがそこから飲食店を興していくにはハードルもいろいろと高かった時代だ。戦後のラーメン史は、まずモノ(材料)が無く日本人に営業権が与えられないところからスタートするが、その間来集軒製麺所がどうしていたかは分からない。小麦の配給が始まり、麺の委託加工業で事業を続けたことは予想できるが、浅草店の開店までの5年間はどうしていたのだろうか。

そして、卯都木常三はどうしていたのか。分かっているのは、浅草の来集軒という製麺所のアンテナショップができたのとは別に、かつての総本店料理長は、別の場所に店を構えたということ。竹町。台東区(当時下谷区)南部、現在の御徒町周辺の一帯。1954年(昭和29年)のことである。

~ 佐竹商店街 ~

二長町の交差点から少し北へと行った東京都台東区台東2丁目31−9に店舗はあった。そして今でもその姿をそのまま残している。2階は卯都木家の住居でもある。近くには「日本で2番めに古い」と言われる佐竹商店街があるが、なぜこの場所だったのだろうか。

竹町(御徒町付近)にあった来集軒
(2016年閉店)

佐竹が原は、1800年代末から1900年代初頭にかけて、浅草に次ぐ、道化などの芸能や見世物、遊技場、温泉場などの興行地としても開発されようとしていたという。その後台風の被害などもあり、興行地の計画は頓挫したものの、人家が建ち、家が増えると店も増え、大衆的な飲食店もでき、最後には竹町は新興の街として栄えていく。

戦後の佐竹商店街の様子
引用:佐竹商店街HP

現在の佐竹商店街はその当時の活気を失ってしまったが、鳥越神社から続くこの一帯の熱気は相当であったと思われる。『最暗黒の東京』の著者でジャーナリストの松原岩五郎の当時取材した内容を引用しよう。

2,000軒の棟割りの連続した商店があり、馬肉屋が繁盛を極め、そば屋、うどん屋、寿司屋、煮売り屋、揚げ物屋、飯屋、餅屋、居酒屋、よろず屋、がらくた屋、芝居小屋など無数の店が毎月のようにどんどん新しく出店し、「一種異様」な雰囲気を生み出していたという。

引用:LIFULL HOME'S PRESS

また、1897年に出された『新撰東京名所図会』にはこう書かれている。

佐竹が原は、中央を貫通する道路(つまり今の佐竹商店街であろう)の両側の裏手には棟割り長屋が並び、今風に言えば、土木作業員、日雇い労働者、あるいは人力車の車夫、辻芸人、占い師、縁日商人、あんまなどの職業の貧しい人々が密集して住んでいたらしい。

引用:LIFULL HOME'S PRESS

~ 竹町 来集軒 ~

卯都木常三は現来集軒浅草店の開店から4年後にこの地に店を出す。それまでの足取りは不明だが、製麺所や浅草の店舗で働いていたのではないかと考えるのが自然だろう。浅草店と同じく、戦前の総本店とは違い、小ぢまりとした個人店。戦後のラーメン店の姿である。

木枠の配膳カウンターがある古い作りで、奥に縦長の厨房があった。私が通ったころにはすでに常三さんは他界しており、奥様と娘さんの二人体制で営業をしていたが、少しだけ話を聞かせてもらったことがある。

2006年に亡くなった常三さん。晩年、体調が悪くて店を休むことが多くなったというが、近所の常連さんに続けてほしいって何度も懇願されたという。戦後、この近隣には多くの中華料理店(街中華)やラーメン店が誕生したが、それだけ地元の人達の支持があったということをうかがわせる。2016年に閉店するまで卯都木常三が作り上げた味を大切に守り、体力の続く限り店を続けた背景にはこうした竹町の人たちの思いが支えていたことを強調しておきたい。

竹町来集軒のラーメン
450円(2013年)

閉店する前の数年は、配膳なども機敏に行えなくなっていたが、地元のお客さんはそれぞれ食べ終わった食器を配膳カウンターまで持参して、おばあちゃんを手伝った。私もそれに倣ったものだ。地元に愛されるお店、というだけではないもっと熱い思いがこんな場面にも表れていた。

来集メン(ソース焼きそば)

もう少し竹町来集軒の話を続けよう。

つづく

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