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【だんちょうてー】~ 20周年ラーメン ~(2002年編③)
~ 永井荷風とだんちょうてー ~
元々は浦安にかっぱ(閉店)の流れをくみ、かっぱという店名だったが、2005年に独立。その際にだんちょうてーという屋号に変えた。
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このだんちょうてーという屋号。どこかで聞いたことがあるという人も多いだろう。永井荷風の『断腸亭日乗』をもじったものである。永井荷風は東京にあった棲家を火事で焼失した後、市川に移り住み、終生この界隈で過ごしたという。その晩年に至るまでの日記をまとめたものがこの『断腸亭日乗』なのである。
荷風の市川での生活は、昭和21年1月16日、菅野258番地(現菅野3丁目17番地付近)の借家の一室からはじまった。ここに荷風は、従兄の杵屋五叟(大島一雄)一家とともに暮らした。長唄の三味線方の五叟と著述業の荷風、一つ屋根の下に暮らすには、生業があまりにちがいすぎた。隣室から聞こえてくる稽古三味線やラジオの音を避けて、荷風はしばしば近くの白幡神社や、諏訪神社、市川駅の待合室で読書をし、時間を費やした。
翌年の1月6日には、執筆のためにしばしば部屋を借りていた同じ菅野に住むフランス文学者の小西茂也の家の一室に間借りの自炊生活をはじめた。しかし、ここでも長年の間に身についた個人主義のために小西夫妻とうまくゆかず、昭和23年12月には立ち退きを迫られ、菅野1,124番地(現東菅野2丁目9番11号)に古家を買い、独居生活をはじめた。この家に昭和32年3月まで暮らした。荷風は菅野に約11年間暮らしたことになる。
荷風が京成八幡駅近くに家を新築したのは、昭和32年、荷風77歳のことだった。荷風はここに34年4月30日に亡くなるまでの約2年間を暮らした。
~ 2000年前後に迎えた魚介スープブーム ~
丁寧に魚介の出汁をとり、強いインパクトを出すラーメンというのは、この当時オリジナルであったわけではないが、この年は特に話題をさらった記憶がある。
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地方ではもちろん、東京でもこの以前から、魚介を効かせたラーメンは存在したが、香りなどをより印象付けるために多様な手法で強調するというスタイルは、この年のルーキーたちにも多かれ少なかれ影響を与え、それに倣ったお店が多く誕生した。そして、この後2006,7年頃から煮干しという極めてインパクトを作り出せる素材によって、それが強調され、ひとつの潮流となっていったことは記憶に新しい。
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炭火焼きのチャーシューも同様で、従来のチャーシュー(主に煮豚)をより工夫して美味しくできないかと模索した時代にとられた手法のひとつだ。また、千葉にある土着のラーメン文化のひとつに竹岡式ラーメンがあり、そのたまり醤油で黒々として香ばしいチャーシューのようなスタイルのチャーシューを、さらに炙り、醤油の焦げたような香りを強調する演出として売りにしていた。
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~ 2002年のラーメンたちが目指した世界観 ~
それらの特徴を備えた神奈川淡麗系と呼ばれたものや濃厚な魚介豚骨スープといった新たな潮流が生まれてきたこの時代の中でも特異な個性を発揮していたのがこのだんちょうてーで、それは今でもブレてはいない。
より出汁や素材の深化していく過程は、この後ラーメンが歩んでいった道のりだが、この当時に共通する価値観は、どう魅せるかという点で共通していて、それは味に関していうと、旨味に一直線に向かうのとも違う、旨味を補佐する香りなどに多様性と特徴を持たせた時代だったと言えるのかもしれない。それはさらに、今は当たり前となっている食の他業種とのクロスオーバーを生んだ。言い換えれば、ラーメンにどんな可能性があるのかを業界全体が模索し始めた時代だったのである。
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