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ラーメンアーカイブ来集軒⑩ 終

~ 現在へと続く道 ~

現在の浅草店があるため、浅草合羽橋本店と呼ばれた大箱の総本店がいつ閉めたのか、そして、今の浅草店へとスイッチした転換点はどこにあったのか、はあまり語られることはない。正確にいうと、今は語られることがなくなってしまった。

堀切で河野さんから話を聞けば聞くほど、当時の人たち、それは食べ手にとっても携わった作り手にとっても総本店は精神的に大きな支柱であったことが窺える。歴史は現在(残っているもの)から見た視点だけでは真実の姿は見えてこない。

例えば、来集軒のキー店として挙げた竹町(御徒町)の来集軒は、総本店系統とは違う桂町(蔵前)系統だったという話もある。その系統がどういったものを差すのかは不明だが、創業者の落合竹次郎からなる落合家の流れを組むものを本店直系とするのなら来集軒の味を形作った卯都木家の物語は、それと並走するもうひとつの系統ということなのかもしれない。

桂町(蔵前)店はすでに閉店している。私自身も行ったことはないが、2006年(平成18年)に閉業し、その時点で75年の歴史ということは1931年(昭和6年)である。加須へと移る入谷の一号店の3年後であり、最初期のお店のひとつということになる。

そのお孫さんが現在はその近隣の三筋町でらいという喫茶店を営んでいる。らい、は当然来集軒から取られている。

三筋町の「らい」
来集軒のらい



蔵前は堀切の河野さんの、鳥越神社の付近で、というくだりでも出てきた街である。竹町、佐竹商店から連なる当時のこのエリアは、言うまでもなく浅草御蔵~官公庁の施設が集まり、やがて職人の街へとなり栄えたところである。時代とともに発展し、そして緩やかに衰退していったが、現在は東京のブルックリンと呼ばれるようになり、再び、活気が戻りつつある。

この場所には、来集軒をはじめ、生駒軒や珍來、萬来軒など多くのお店があった。しかも、現在からは見えてこないが、いずれも(その系統で)重要な役割を果たしたとされるお店である。街の衰退とともにこれからも店が無くなってしまったことを残念に思う。(生駒軒はいくつか現存している)

〜 浅草合羽橋総本店の最期 〜

それでは浅草合羽橋総本店の最期はどんなものだったのだろうか。簡単にわかっていることを時系列に追う。

1910年(明治43年)来集軒製麺所創業
1928年(昭和3年)来集軒一号店(入谷)開業
1931年(昭和6年)来集軒桂町(蔵前)店開業
1941年(昭和16年)入谷店(戦時により)加須へ移転
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1950年(昭和25年)浅草合羽橋総本店開業
1951年(昭和26年)八広店開業
1956年(昭和31年)竹町店開業
1989年(平成元年)現浅草店開業

浅草合羽橋総本店を閉めたのはこの1988年3月31日である。そのときの様子は読売新聞一面に「老舗が消える」と題され記事になったという。単なる戦前から続く老舗の閉店というだけではなく、浅草が焼け野原であった頃から復興の胃袋を支えたお店でもあった意義を伝えるものであった。その一節を紹介する。

 下町っ子や浅草・六区の芸人たちに愛されてきた東京・西浅草の中華料理店「来集軒」=落合辰雄さん(59)経営=が、あす三十一日で店をたたむ。地主から立ち退きを求められ、地価が上がって代わりの店も見つからず、閉店するしか道はなかった。高座や舞台の合間に熱々のメンをすすった芸人たちも「懐かしい味がなくなっちまう」と嘆く。再開発の波に流されて、またひとつ、浅草の灯が消える。
 落合さんが合羽橋商店街に店を開いたのは、戦後まもなくの二十五年。「ところが、去年二月に突然、地主さんから移ってくれと話があった」。
 地主の示した移転先は、現在の店(約百二十平方メートル)の半分以下の広さで、商店街からもはずれた所。手を尽くして、適当な店舗を探したが、「最近の地価高騰で、地主さんの言う立ち退き料で営業できる場所はない。かと言って、借金するには、私も年をとりすぎている」。
 店のドアが木枠からアルミサッシに変わり、五十円だったラーメンも四百五十円になったが、独特のちぢれメンとスープの味はがんこに守った。雑誌やテレビで紹介されてからは、遠くから訪れる客も増えたが、中心はやはり地元の下町っ子たちと浅草の芸人たち。
 ラーメン好きで名高い落語家の林家木久蔵さんや三遊亭金馬さん、柳家小せんさん、俳優の長門勇さん--と、店のファンは数えあげればキリがない。閉店の知らせに金馬さんは、「昔ながらのシナソバの味で、それが懐かしくて好きだった。浅草で高座があると立ち寄っていた。懐かしい味がまた一つ、遠くなっちゃうなあ……」としんみり。
 最後の三十一日は、午後三時まで、得意客や近所の人たちへの感謝をこめてラーメンを無料でサービス。その後は、同店で修業して都内各地で十五店の「来集軒」を開いている弟子たちが集まり、“本家”の最後のラーメンを味わうことになっている。

1988年3月30日東京読売新聞 夕刊
浅草店のシュウマイ

その当時の様子を再び河野さんが語る。閉店の日、多くのファンとそこから弟子として巣立った店主たちが集まった。取材を受ける者もいたが、河野さんはあまりに悲しく、写真をとって、あとは隅で泣いていたという。当時名前(屋号)はとても大切だったからね、と一度破門になった河野さんはより寂しく感じていたのかもしれない。

~ 来集軒 人のつながり ~

来集軒は初代の落合竹次郎が興したのち、2代目、3代目を経て現在は4代目になっていると製麺所のHPにある。初代の竹次郎には息子がいて、その兄弟がそれぞれ製麺所(弟)、中華料理部門=浅草合羽橋総本店(兄)が請け負っていく。堀切の河野さんが来集軒の看板をもう一度掲げたい、と頭を下げにいったのはその落合さんである。

浅草店の来集メン

その子どもたちがそれぞれの事業を続けていくことになるが、総本店はそこから3代目のときに店を締めることにした。現在の浅草店はお兄さんの末娘が女将を務め、その息子さんが厨房に入っている。姓は腰塚。

来集軒製麺所から麺を卸している店は多くはない

また、以前は月に一度来集軒の会合があったという。そして、年に一度は系統の別け隔てもなくすべての来集軒に関わる人が総本店に隣接したどぜうの飯田屋での集まりがあったという。こうした古い、寄り子のような信頼関係と家族的な組織のあり方は日本に適した経営スタイルだった。それが時代とともに薄れ、それぞれを繋ぐものが情報へと移り変わってきたように思う。現代から情報という観点でみると来集軒の本質が見えにくくなるのはそのためだ。

来集軒製麺所は、少し不思議な立ち位置にいる。来集軒と名のつく店に麺を卸せば商売になるはずだが、何故か浅草店のみに限っている。麺に特徴があった手打ち麺由来の来集軒であり続けたとしたら、それで店舗を広げたとしたら、もう少しラーメン史の中で注目を浴び続けたのかもしれない。


ただ、浅草に、堀切に、そして、加須に来集軒はその本質を分配しながら残し続けている。製麺所が誕生してから110年以上が経とうとしているが、ローカルな文化にとどまらず日本ラーメン史の中心的な役割を果たした来集軒を今改めて見直したい。

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