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板書

 私が担当する授業のアンケートで「この授業で良かった点を自由に書いて下さい」という項目に、意外にも「板書がキレイで見やすかった」という意見が毎年数件あります。別段字が特別上手でもないし、どちらかと言うと早書きなんですが、何故か意図せずお褒めの言葉を頂きます。理由を考えるに、恐らく自分が学生の時に、どんな風にノートを取っていたのかが今の板書の評価に繋がっているような気はします。
 
 私が授業する側として心掛けているのは、説明の順番をできるだけ前後させない事です。それは自分が学生の時に話があちこちに飛ぶ上に、板書を黒板のあちこちに殴り書きする先生がいて、非常にノートが取りにくいなぁと思ったことがあったからです。
 
 大学教授で高い知見をお持ちの研究者であっても、教師として秀でているとは限りません。ましてや大学の教壇に立つのに教員免許状は不要なので、教案を作ったり模擬授業をしたりした経験が皆無の方でも学会の大御所の教授ということも間々あるのです。高度に専門的な内容の授業ならそういう先生が必要ですが、新入生に概論的な内容を教えたり、初習語学の演習などをするには、恐らく高校までの教員のスキルの方が重宝されるだろうと思います。
 
 教育実習での経験や、その後17年間高校の教壇に立っていた経験が今の私の授業を作ってきた自負は多少なりともありますので、お褒めに預かった板書もその成果の一つなのかなと考えています。特に大学における第2外国語としてのフランス語を教えるに際して、この言語を如何に好きになってもらうかが我々教員の使命だと考えていることもモチベーションになっています。そうでもしないと、「解り難い第2外国語は不要」みたいな意見は直ぐに出てきますし、教養科目や第2外国語科目廃止論がすぐさま専任教員から出される傾向が潜在的にどの大学にも渦巻いていることは常に肌で感じられるのです。
 
 学生の側にも「第2外国語面倒くさい」という考えが蔓延っていますし、如何にして単位を落とさずに最短距離で卒業するかしか頭にない学生も割と多く存在するのもまた事実です。しかし外国文化との数少ない接点であり、入口でもある第2外国語の授業を一切やめてしまったら、学生の外国文化に対するステレオタイプは固定化し、一旦固着してしまった偏見をフラットに戻すのに大変な労力と時間が必要になるのは目に見えています。そしてその偏見を放置するようなことは、相互理解や国際交流を虚しくする最悪の行為だと言わざるを得ません。
 
 言葉を通して馴染みのない海外の文化に対する眼を開かせ、興味を喚起する作業はその後の専門的な勉強に進むに際しても、或いは就職して社会に出ていくに際しても決して不要とは思えません。その意味でも大学にそれなりの学習意欲を持って入ってきた新入生には、何としても第2外国語を好きになってもらい、未知なる文化に対する偏見を持たずに新たな知識獲得に専心してほしいと強く願って授業をしている次第です。

 然るに、最近授業ではそうした苦心の板書をノートに取ることなく、スマホを取り出して写真に収める不届き者が増えています。一見合理的な時間の使い方のように見えるこの行為は、授業時間内に耳で聴き、眼で見、そしてそれを頭で考えながら手を動かして整理するという究極の合理的な時間の使い方からは、遥かに遠い行為であることを一部の学生達は理解していません。家に帰ってから、写メした板書を解読することから始めて授業の内容を理解しようとするのはどう考えても二度手間、三度手間になっているということに残念ながら彼らは気付いていないのです。

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