授業雑感①
私は大学でフランス語を教えている者ですが、教員生活を始めた頃と比べて、授業そのものの実施環境は著しく変わってきました。嘗ては授業用の音声教材はせいぜいテープで、授業の度にかなり重いテープレコーダーを借りに行くような状況でした。それはCDになり、一時MDになり、今や音声ファイルを再生するために、個々がノートPCを持ち込んでHDMIケーブルで教室に設置された機器に接続するようになりました。
同時に語学の授業では、音声だけでなく映像教材も徐々に増えてきて、こちらも最初の頃はVHSビデオ。その後DVDとなり、今ではこちらもPC内の映像ファイルをHDMIケーブルで教室内の機器に接続し、モニターなり、プロジェクターなりで学生に見せるようになっています。
学生の方も、以前は板書をノートに書き取るというのが当たり前でしたが、今は板書をスマホで写メするような不届き者もいれば、自分のノートパソコンに打ち込みながら授業を受ける者もいます。
時代の変化ですから、そのこと自体に文句を言う気は更々ありません。出来る事の選択肢が増えたこと自体は歓迎すべきなので、昔のやり方を殊更に賛美して強制したりするようなアナクロニズムに走る気は毛頭ありません。だからと言って、新しい物が全て正しいと盲目的に受け入れるつもりもありません。要は学生が一番勉強し易い方法を、自分で考えて選べば良いのです。
思えば、凡そ科学の進歩は、人類に如何に安楽を齎すかという一点で進んできたような気がします。ネイティヴの発音を繰り返し聴きたいと思えば音声教材を使えば良いし、実際の会話の場面を見てみたければ、映像教材を繰り返し見ることも可能です。30年前の学生と比べれば、現代の学生の学習環境は全くの別物であり、授業にかける労力は相当軽減されていると言って差し支えないでしょう。
その分教員の仕事は年々増えて、常に新たなメソッドを取り入れなければならないし、我々のような非常勤教員にとってはそのための機材を自己負担しなければならないというジレンマに常に捉われているのが正直なところです。実際30年前の学生より、現代の学生の方が格段に能力が進んでいるとか、学習意欲が増大しているとかいう事実でもあれば、こうした環境の変化も進歩と言えるのでしょうが、1990年代に使っていたテキストと、2023年に使っているテキストを見比べてみると、内容的には1990年代に使っていたテキストの方が格段に難しいことをやっていたのです。
向学心があって、知識・教養に対する飢餓感のようなものを持った学生の割合は確かに減少してしまったのかもしれません。それは学生からの質問の中身にも如実に反映してきており、教科の中身に関わるようなことや、フランス語を身に着けて将来的に得られるプラス面に言及するような学生は皆無となり、次の試験には何が出題されるのかというような事ばかりに限定されるようになってしまいました。
大学で学問に立ち向かい、幅広く知識を身に着けて、将来の自分のスキルにしていこうという学生が減少し、寧ろ大過なく単位を取ってさっさと卒業して無難に就職したいという学生が増えてしまったのかも知れません。そのこと自体は、昔もそういう現実主義の学生はいたでしょうし、現代でも野心を持って大学に来ている学生も少しはいるでしょうから、断定的に語ることは出来ませんが、この国の在り様や、世界の在り様を見て、叶えたい夢とか立身出世などという言葉を口にするのもナンセンスだと思うのが主流になったのも止むを得ないような気がしてしまいます。それもこれも皆我々大人たちの責任なのかと省みると、学生の前に立って偉そうに「夢を持て」とか軽々に発することは出来ないなと思ってしまうのです。
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