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芦原妃名子さんと「セクシー田中さん」問題、まだ見ぬ本丸は誰なのか

芦原妃名子さんと「セクシー田中さん」の件。
相変わらず、誰が悪いという感情論が飛び交っていますが、それでもいろいろな内情や、それを元にした分析が出てきていますが、どうも本質的なところに至らない話がほとんどに思えるので、ちょっと整理してみましょう。
ちなみに、誰々が悪い!とかこの人の過去にこんな経歴が!みたいなゴシップ的な話をするつもりはないので、カタい話になるかもしれないので、その点はご了承いただきたいです。

まず最初に、当初僕自身がどう考えていたのかは、FBなどに書いていたのですが、それを「ネット世論」という視点から、桐島聡の件と共に検討したのがこちらの記事です。
芦原さんの件のところをご参照いただければと。



最初は両者への非難から始まった

原作者の芦原さんが亡くなったことで、当初は脚本家、相沢友子さんへの非難が集中しました。
原作を変えたのが悪い!リスペクトがない!という意味不明の批判でした。
一方で、このくらいで死ぬなんて弱すぎるという、亡くなった芦原さんに対する容赦ない言葉もありました。
どんな理由があっても、亡くなった人に対してこのような言葉を吐くべきではありません。マジでクソです。

まず、大前提として、原作コミックのテレビドラマ化にあたって、「原作を変えないという約束」になっていたことは重要です。
それを証明するものとして、どのような契約になっていたのかが明らかになっていないので、現時点では芦原さんの発信にあったことからしか読み取れませんが、著作権の同一性保持権は原作者にあるので、芦原さんの発言を信用して話を進めても問題ないでしょう。


原作の出版社・小学館の立場

その後、なぜ原作の出版社である小学館が芦原さんを守らなかったのか、とう議論が出てきました。
守るわけありません。
テレビ局も出版社も儲かればいいわけで、原作の同一性保持や原作者の思いなんて二の次です。
それが会社ってもんです。
「誰」じゃなくて、会社という「組織」の本能なんですよ。

そして、昨日、2月8日に発表された小学館のコメントがコチラ。

感情論にならぬようと、著作権の話などを持ち出しながら書いていますが、最終的には感情論になっているし、もろもろの説明は具体性を欠いた自分達はこういうつもりだったというような言い訳に近いものです。
これが熟考して欠いたものなら、保身のための熟考に思えます。

なぜなら、著作権と言いながら、日本テレビ側にそれを守らせるために何をやったのかということが何もないし、これから具体的にどうするのかも書いていないからです。
著作権を始め、権利というものは守らせようとしないと守られないものなんですよ。
権利が自動的に守られるというのは幻想です。

例えば、自動車事故で死んだ人には生存権があったはずなのに守られていないということになります。
だから、事故が起きないような取り組みをするわけです。
著作権だって侵害されないように様々な取り組みをしていますよね。
では、今回の当事者たちは、原作が改変されないようにする取り組みをしたのか?
していれば具体的に言及できるはずですが、書いていないということはしていないのでしょう。
先方に意向が伝わっていれば自動的に守られると言うものではないのです。

また、芦原さんが「原作を変えないことで同意しているはずなのに、変わりまくった脚本ばかりが上がってくる」と言っていたことに対して、何も言及していないことはすごく大事なポイントです。
つまり、小学館側も改変することを容認していたんじゃないか?と思わざるを得ません。


原作の改変は悪なのか?

少し戻りますが、ドラマ化に際して、原作を改変することは悪なのか。
リスペクトがない行為なのか。
上記のリンク先にも書きましたが、僕はその考えには反対です。
一人の作家(と編集者)が作った漫画と、大勢のチームで作るテレビドラマは対極の世界観にあるものだからです。

テレビドラマにはさまざまな要素が横から入り込んできます。
例えば、作品とは関係ない力学で演技がヘタなくそアイドルを起用しなきゃいけなくなったら、そこは演出でなんとかするしかなくなります。
そもそも、絵と実写では見え方がぜんぜん違うので、原作通りに作って世界観を再現できるとは限りません。
大事なのはドラマ化によって原作の評判を落とさないことです。
これこそが原作へのリスペクトだと僕は思います。

もっと極端な場合は、原作にはなかったキャラクターを追加したり、原作の世界観だけを維持して、まったく新しいストーリーを作ってしまうこともあります。
これには批判もあるでしょうが、最終的にGOを出すのが原作者であれば何も問題ありません。
そう、今回の問題点は、原作を改変したことではなく、原作者の了解を得ていなかった、または約束を反故にしたことです。


脚本家・相沢友子さんの立場

では、脚本を担当した相沢友子さんは、というと。

これを読む限り、相沢さんは芦原さん側の事情を知らなかったということになります。
これ以前のインスタへの投稿を見る限り、脚本を修正しようとする芦原さんに対しては、「原作者のわがまま」と思っていた可能性は大きいですが、もし、そもそも「原作を変えない約束になっていた」ということを知らなかったとするならば、その気持ちもわかります。
相沢さんとしては、言われた通りに仕事をこなしただけで、それを非難されるいわれなどないと言うことになります。

だとしても、当然原作を読んで脚本を書いているはずなので、自ら原作から離れた内容に仕立てたことは間違いありません。
「原作を改編しない」という合意を元に書いたのであれば、そんな脚本は書いてないはずだし、原作者のチェックも微細な修正に止まるはずです。
だから、原作者が大幅に修正を加えてくることに対して、原作者に対して疑問を持つのではなく、話の前提が噛み合っていないのはなぜ?と疑問を持つべきでした。
物語を作る人間として、そこに意識がいかなかったのは未熟と思わざるを得ません。

一方で、分かっていてわざと改変したはずだ!悪意がある!という意見もあるでしょう。
ただそれを証明できるものは現時点では何もないですし、相沢さんが芦原さんに悪意を持つ理由も分かりません。

今、相沢さんに求められるのは、実際にどういった話で仕事を受けて、どんな経過を辿ったのかを詳細に公表することです。
これによって名前が明かされ、二次被害だ!というようなクレームを受けたり、最悪、今後脚本家としての仕事がもらえなくなる可能性があります。
それでも、上記のような保身のための書き込みだけでなく、今後の再発防止のために、そういった事実の公表は必要でしょう。
そのタイミングは、主犯格の人たちがコメントを出した後に来るはずです。


主犯は誰なのか

犯人探しのような物言いは良くないと思いますが、この状況を招いた元凶を作った人物は存在します。
それは、プロデューサーの三上絵里子氏です。
日テレの理事というそれなりの役職にいる人物でもあります。

プロデューサーは作品の着地点を見据えて、全体をコントロールしていくのが仕事。
当然のように、原作を映像化するときの方向性を決める最終的な権限を持っています。
つまり、プロデューサーがOKを出さないと、ドラマは完成しないし、脚本家も好き勝手できません。
つまり、脚本家が書いた内容は、プロデューサーが求めた方向性であるわけです。

今回は「原作を変えない」という合意のもとに制作が進められている。
しかし、原作を変える方向性で作業は進んでいった。
これはプロデューサーの意向である可能性が極めて高い。
つまり、合意は反故にされているわけです。

それを押し通すためにどうしたのか。
まず、原作者と脚本家を会わせないことです。
ここで両者が理解しあったり、それこそ意気投合してしまったら、プロデューサーの思惑通りには進めづらくなります。

もっと言えば、プロデューサーは脚本家に原作を大幅に変えてはいけないとは伝えていないはずですし、原作者との合意条件を伝えていない可能性も大きい
それを伝えた上で改変しろと言っても、脚本家が躊躇う可能性があるからです。

こういった手法は珍しいものではありません。
約束があっても、作ってしまえば放送日が迫っているから今から直したら間に合わないと言えば、ほとんどの場合は強行突破できるでしょう。
テレビドラマにはものすごく多くの人たちが関わっていますから、責任問題は様々な方面に波及します。
それを原作者がNGだと言ったからという風に伝えられれば、事の詳細などは顧みられることもないままに、原作者がわがままだからだ!と伝わっていくはずです。
だから、原作者は涙を飲むしかありません。

漫画や小説のドラマ化は当たり前のように行われていますが、ここでの原作の改変などに伴う原作者の苦悩は、これまでも数限りなく伝えられていますし、プロデューサーからすれば強行突破するための手法として、テクニカルに利用しているはずです。
三上氏はかなりの実績がある人だし、今までも同じような手法で作品を作ってきたのかもしれません。

プロデューサーはとにかく自分が中心となって動かせるような体制を作るのです。
そうじゃないと大きなチームの管理はできませんし、その責任を負うことも、成功した時の名声を得ることもできません。
しかし、そこで暴走するプロデューサーがいることも事実で、作品のためだけでなく、権力が集中するとやっていいことといけないことの境界がわからなくなってくるのです。

そして、テレビ局は第一報が出た時の、明らかに冷たく、芦原さんに迷惑したとでもいわんばかりのコメントを出した後、事の詳細を明らかにしないまま沈黙しています。
プロデューサーの三上絵里子氏もまた、現在に至るまで一言も発言せずにいます。
もちろん、これによって(現時点では大衆の非難の矛先が自分に向いていないと思われる)自分に攻撃が来ないようにする意図はあるのでしょうが、人が死んでいる以上、いつまでも黙っているわけにはいかないはずです。


原作者・芦原妃名子の苦悩

芦原さんは上記のような状況の中、脚本の修正や、最終的には自ら脚本を書くことを「強いられ」ます。
原作を改変した脚本を容認するわけにはいかない。
しかし、脚本家の交代は認めてもらえない。
それならば自分で書くしか選択肢はありません。
通常業務に加えて、慣れない脚本書きは肉体的にも精神的にも疲弊させたでしょう。

原作と違った内容の脚本を修正すること自体にも心を痛めていたと思われます。
わざわざ脚本家が書いてきた「作品」を、改変を嫌がる作家本人が修正する。
自分が嫌がっていることを自ら他の人にやっているようなもの
です。
これじゃあ自分自身に罪の意識が向かいますよ。

もっと言えば、芦原さんは相沢さんが原作を改変した脚本を「書かされていた」ことに気づいてたのではないか。
相沢さんは自分が書いた脚本を修正されることを嫌がっている。
それを芦原さんのわがままだと感じている、というところもわかっていたのかもしれません。

作家を尊重すべき小学館はなぜそのような行為を止めなかったのか。
<攻撃したかったわけじゃなくて ごめんなさい>という芦原さんの書き込みは、人ではなく行われた行為に対しての困惑なのだ。


再発防止に向けて〜法律と契約の話

忘れてはいけないのは、ここに関わった人たちの中に悪意を持っていた人は誰もいないであろうということです。
みんなそれぞれにいい作品を作ろうとしていたし、そこから利益を生み出そうとしていた。
ただ、その見ている先が違い、方法論が違った。
そこで暴走した人間がいて、それを食い止める仕組みもなかった。
実は、対策も改善もそんなに難しい話ではありません。
これまでの業界的な慣習や、そこに生じる利益や名声を欲しいがままにしたい人がいる。
それを抑制するのは法と契約です。

「法」というだけでめんどくさいと背を向ける人は多いです。
そして皆感情論で語りたがります。
感情論の行く先は、悪者を特定して、非難して、新たな被害者を生み出すことです。
そうならないために、人を守るためにあるのが法律なんです。

今回の問題点は、契約にあると思われます。
慣習的に、出版関係の契約は口約束であることが多いです。
きちんと書面を交わしても、そこに交渉が発生することは多くない印象です。

テレビドラマとなればさすがにもっときちんとした契約を交わしていると思いますが、僕は内部の人間ではないので想像の域はでませんが、大まかな流れはこんな感じではないでしょうか?
テレビ局の法務が契約書の土台を作り、出版社側と交渉。
その結果を原作者の元に持っていき、了承を得る。
原作者は契約の最初の段階から関われず、多少の変更はできても、もうここまで煮詰まっているんだからと、大枠の変更はできない。
もちろん、原作使用料も原作者が自分から要求できない。
だから、非常に安い金額に抑えられてしまう。

先にも書いたように、テレビ局も出版社も儲かればいいんです。
大会社に挟まれる形となった、個人の原作者など、大きなことは言えません。
要求に飲まなければ潰されるだけです。
大っぴらに圧をかけてこなくても、それが世の中の仕組みです。

ここで、そういった事態を打開するためには、原作者が弁護士を雇い、契約の最初の段階からすべて納得できる形に持ち込むことです。
著作権は原作者にあるのだから、原作者が様々な権利を主張するのは当然のことです。
そこで必要な専門的なことは、専門家である弁護士に任せるべきです。
著作権関係を専門とする弁護士もいます。

これまでの慣例から、テレビ局も出版社も、後からいくらでも自由が効くように口約束を書面に落とし込んだ程度の契約を求めているはずで、弁護士の同席をめちゃくちゃ嫌うはず。
だからこそ専門家を味方につける必要があります。

例えば、原作の改変を認めない。
勝手に改変された場合は、著作権の同一性保持などの違反として賠償金を求めることができる。
または、制作を止めることができるなどです。
そうなると、放送できなかったことによる損害賠償を求められる可能性があるので、そこも契約書に含めておく必要があるでしょう。
こういったことを作家一人が全て先回りして考えるのは難しいと思います。
だから、契約はプロに任せるべきでしょう。

ただし、費用が掛かるから原作者もそれをやりたがらないんです。
それでも、原作の使用料がそれなりの金額になれば、その余裕も出てくるでしょう。
例えば、テレビドラマ化から生まれた全収益の数%が原作者にいくような契約にするのがいいと思います。
当然、テレビ局も出版社も自分達の取り分が減るから嫌がるし、その作家を使いたくないという流れが生まれるでしょう。
でも、誰かが手をつけて、その流れを作っていかないと、作家は永遠に搾取される存在であり続けることになります。

もう1つ、こういう契約だと、弁護士のギャラをドラマ化の収益からパーセンテージで寄越せといってくる可能性があります。
弁護士の料金は、そこから得られた収益からパーセンテージで支払う場合も多いでしょうから、それなら予めドラマ化の契約の中に組み込んでしまえば、弁護士の取り分も増えます。
欧米などでは過去に、マネジメント側に立った悪徳弁護士がこういった形で作品そのものの権利を管理したり、横暴ともいえる契約条件を突きつけたり、そこから自分の利益が増えるように画策したりと多くの問題が発生しました。
ただ、日本ではその前段階ですから、程よい立ち位置の制度を作ることは可能だと思います。


最後に

法律だ、契約だ、弁護士だと言うと、多くの人はめんどくさいと顔を顰めるでしょう。
そうやってまた結論のでない感情論に戻っていきます。
その結果、人が死んだ。
その状況を作ったのは、SNSの世論も無関係ではありません。
なぜ法律があるかと言えば、それは人を守るためというのが第一義です。
組織や世の中の仕組みのあらゆるところに法律による建て付けが絡んでいる以上、そこを無視しても真実には辿り着けないし、結論も出ません。
誰が悪いと批判するのは簡単ですが、その前にどういった仕組みの中でどういう立場で関係しているのかを考えると見えてくるものがあるはずです。

芦原妃名子さんが亡くなったのは本当に残念です。
今回のようなことが起こらないように契約を明確化して遵守することが大事だと思います。
そして、日本テレビはあたらめて正式なコメントと対応を発表すべきだし、プロデューサーの三上絵里子氏も覚悟をもって表に出てきて話すことが必要だと思います。


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