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芦原妃名子と桐島聡の事件に共通するもの

FBに書いたものをこちらにもまとめておきます。

漫画家・芦原妃名子さんの件はあまりにも痛ましい。
逆に桐島聡の件は、あえて極論を言えば、死んで当然と思っている人も多いのではないか。
では、このどちらも人が亡くなっていて、その背景のすべてが明らかになっているわけではない2つの事件で、なぜこんなにも世論は正反対なのだろうか。
それを分けているものは、実は「主観」だ。


原作の改変そのものは悪ではない

まず、芦原さんの件。
個人的には漫画やドラマの世界は疎いので、報道があって初めて知りました。

人気のコミックをドラマ化するというのは極めてよくある話です。
そして、その時に原作に演出を加えるのも当たり前のようにあること。
なぜなら、一人の作家が作った(ここに編集者を加えてもいい)漫画と、大勢のチームで作るテレビドラマは対極の世界観にあるもので、原作はあくまでも原作であって、テレビドラマはテレビドラマでしかないからだ。
生身の人間が演じる時点でかなり見え方は変わるし、キャスティングによっては、それだけで原作のイメージが吹っ飛んでしまうこともある。
だから、最適化が必要になる。

テレビ局も出版社も会社なんです。
会社というのは直接的には儲けることが目的なんだから、コミックであれドラマであれ、良い評判を取って、売上につなげなければ意味がない。
その意味で、原作のオリジナル性保持というのは二の次でしょう。
一つ間違いないのは、ドラマでもいいものを作ろうとしたということ。
作品をリスペクトするとは、原作に忠実であることではなく、作品の評判を落とさないことだと思う。
原作に忠実に作れば、漫画の世界観が再現できるというわけではないし、それで視聴率が取れるとも限らないのだ。

原作の改変は著作権者の許可が必要

原作者からしても、納得した上での改変なら問題ないし、原作がより売れたり、二次使用料で儲かったりもするから、何を目的にするかで判断は変わります。
ただし、著作権も含めて、原作の改変には原作者の許可が必要。
そこのすり合わせをするのはプロデューサーの仕事です。
今回の問題点は、元々、原作の方向性は変えないという合意があったにも関わらず、ドラマの制作側が改変を押し通そうとしたことです。
なぜ合意を守ろうとしなかったのか。
ここにどんな力が働いていたのかを考える必要があります。

脚本家の相沢友子が原作を改変した脚本に対し、芦原妃名子がNGを出して、最後の2話は自分で脚本を書くことになった。
それに対し、降ろされた形になった相沢が恨み節を自らのSNSに綴っている。
それを非難する声は多いです。
では、相沢はどんな指示があって脚本を書き上げたのだろうか。
相沢は芦原の意向や改変しない方向性を知っていたのだろうか。
これは相沢が暴走した結果なのか、それとも仕事を忠実にこなしたのか、現時点はそれはわからない。

一方で、芦原のバックアップをしていたとされる小学館の担当者は、実はドラマ化に関しての取り決めを、芦原ときちんと共有していなかった可能性が報道されている。
担当者もドラマがヒットするために改変を容認していた可能性があるのだ。
つまり、芦沢は孤立無援だった可能性がある。

改変を強行したのはプロデューサー?

問題は、両者の間をつなぐ役割だったプロデューサーです。
ドラマの方向性として原作の改変が必要なら原作者を説得しなくてはならない。
それが受け入れられないなら、どういう形で着地させるべきか考えなくてはならない。
合意が得られない形で押し切ろうとするのはルール違反です。
しかし、過去にはテレビ局側のこういった強引な決着に涙を飲んできた作家も多い。
だから今回もいけると思ったのかもしれません。
プロデューサー自身も、制作が放送日に間に合わなければ責任問題になる。
だから必死だったでしょう。

結果、芦原は、通常の連載に加え、慣れない脚本書きをする羽目になり、さらに板挟みのプレッシャー、結果、納得のいく脚本が仕上がらなかった。
外圧によって作品のクオリティに影響が出るのは、作家としては屈辱です。
改変を許さない契約になっていた以上、芦原側に非はない。
しかし、全部自分で引き受けるのはダメです。
キャパオーバーして精神的にも余裕がなくなります。
芦原が最後にXに書き込んだ言葉をみると、誰かを非難することが目的ではなく、あくまでも作品を守ろうとしていただけだったことが伝わってくる。
芦原が戦っていた相手は人ではなく理不尽さだったのかもしれない。

では、どうやって自分と作品を守るべきだったのか。
そのときに作家を守ってくれるのは法しかないんです。
合意した契約が守られなければ、弁護士を同席させ、放送停止の仮処分を申請するくらいのことはやるべきでしょう。
ただし、放送を止めることに関しての責任を問われる可能性があるので、これを事前契約に盛り込んでおくことは必要だろうし、この時点から弁護士を同席させるべきだったでしょう。
もちろん、今回も契約書くらいはあったでしょうが、テレビ局と出版社のやりとりがメインだったりして、作家本人は詳細に絡ませてもらえなかった可能性もあります。
だとするならば、作家が自ら弁護士を雇うしかない。
もはやかつてのように、口約束で仕事ができる時代ではないのかもしれません。

SNSを見てみると、かわいそうだとか、誰が悪いとか、非常に感情的な書き込みが目立ちます。
極端なものだとバッシングや罵詈雑言まで。
しかも、亡くなった人に対して「たったこの程度で」というようなことを言ってのける者もいる。
または、悪者を特定して、追い詰めればそれでいいのだろうか。
匿名の第三者がそこに加担することで、誰か追い詰められて死んで行く。
また新たな被害者が出たらどうするつもりなのだろう。

人は殺していない桐島と間接的に人を殺しているネット世論

一方で桐島の件。
罪は罪として許されるべきではないというのは大前提として。

報道を見ていて違和感があった。
あれから50年経って、今名乗り出たのは自己顕示欲からだとか、ここまで逃げ切った自分はエリートだと思ってるはずとか評する専門家の声や、逆に、結局ちゃんとした生活すらできなかったんだから負け犬だとか、どれも決めつけを前提にしてない?って思ってしまった。
某女性弁護士さんなんかは、桐島が8人殺してるとか言ったみたいだけど、人が死んでる事件には関わってないんだよね。
これが思い込みって奴です。極悪に違いないって。

70年代半ばは、まだまだ左翼闘争の残党がいた時代です。
あれは彼らなりの「正義」だったわけです。
それを実力行使という形で実行しようとしたのは圧倒的な間違いだったわけだけど。
対して、いまSNSで名前を隠して罵詈雑言吐いてる連中も、自分が思う正しさってやつを表明しているわけだから、あれも自分なりの「正義」なわけです。
それによって、間接的かもしれないけど、芸能人から学生まで人はたくさん死んでいる。
だったら、SNS上の言論と称した罵詈雑言はテロとは違うのだろうか。

桐島は極悪非道な人物なのか?

桐島が神奈川で生活していた時代の話が続々と出てきているが、(現時点では)そこには反社会的な姿は感じられない。
でも人は、今も警察を嘲笑っていたはずだと決めつけたり、自首しなかったんだから反省してないんだと言う。
じゃあ、SNSで誰かを攻撃している人たちは自首するのだろうか?

もちろん、死んでしまった以上、桐島の本当の気持ちはわからないし、僕が書いていることも想像の域を出ない。
もう1つ、桐島がなぜ見つからなかったのかを想像してみよう。
それは逃走中の犯罪者ではなく、ただの一般市民として生活していたからじゃないのだろうか。
今の環境の中で精一杯生きていただけなのかもしれない。
だから、死ぬときには自分の本当の名前を取り戻したかった。
誰かにアピールするためではなく、自分のためだったのではないか。
そんな可能性だってあるのだ。

50年も経てば人の考え方は変わるだろうし、社会常識も変わる。
今、ライブを見に行っても、40年前のように客がステージ前に押しかけて人が圧死するようなことはない。
爆弾で世の中が変わると思っている人もいないでしょう。
罪は罪として許されないものだとしても、その人柄までを勝手に決めつけるのは怖いなと思った。

思い込みによる正義は加害になる

今の日本は、過去の過ちを一生許してくれない。
だから、小中学校時代のイジメを理由に仕事を奪われたり、自分の意志できた人があたかも強制的にそうさせられたみたいな物言いで相手の社会的信用を無きものにしようとする。
過去の過ちを理由に今のその人を否定することは正しいのだろうか?
犯罪者の更生率が低いというけれど、「正義」を気取った多くの国民がそれを阻んでいるのではないか。

今のネット世論というやつは、ろくに調べもしないで、自分がこう思ったからというだけで、それを正義の名の下にネットの海に放っていく。
その対象が被害者なら無条件に擁護し、加害者なら無条件に叩く。
でも、目に見える被害と加害の内情が逆だったら?
調べてみれば、思いもよらぬ背景があったり、一般常識では計れない状況があったりする。
そこまで見越すことなく断定的に誰かをバッシングするのは本当の正義なのだろうか。

同じ社会のためにと思った行動でも、ただの「わがまま」と解釈されれば、それは「正義」ではなく「罪」になる。
その間にあるものは、誰かの「主観」でしかない。
今の日本では人を裁くのは法律ではなく人々の「主観」なんです。
これ、けっこう恐ろしいことだなと思いました。
重要なのは事実はどうだったのかを認識した上で判断すること。
そして、最終的に裁くのは法であることではないのだろうか。

原作を改変するのは悪だと、芦原妃名子を自殺に追い込んだ人たちをバッシングすれば解決なのか。
人を殺していない桐島聡を人殺し扱いしてまで叩くのは正しいことなのか。
匿名の誰かの「思い込みによる正義」は、加害にしかなり得ない。
正義を振りかざす通り魔のようなものだ。
自分の正義が誰かを傷つけていないか、まずは自分の胸に手を当てて考えてみるべきだろう。


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