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モンターニュのつぶやき「心が惹かれる国」 [令和3年4月17日]

[執筆日 : 令和3年4月17日] 

 宮城県在住の同期から、月一度の便りのメールが来て、そこには、燕が飛来してきた話と併せて、「ちゃせご」という古くから伝わる和菓子のことが書かれていました。福をもたらすお菓子のようで、地方には、私の知らないこうした伝統がコロナ禍に負けないで生きていることにほっこりする訳です。またこの同期は同郷人(愛知県)との名古屋弁での会話まで載せていましたが、方言という共通の言葉で会話が出来るのは気持ちの良いものであります。
 ちなみに、丸谷才一さんが「思考のレッスン」で、読書の効用を、1.情報を得ることを学べること、2.(新しい)考え方を学べること、3.書き方を学べることと述べていますが、メールや手紙は本を読むような読書とは違いますが、自分が知らなかった情報に接したり、自分の知らなかった考えに出逢ったり、あるいは、心を惹きつけるような文章、文体を学ぶ、真似るきっかけにもなる訳です。

 メールで便りを送ってくる宮城の同期は、定年を待たずに自主退職した人ですが、退職前に時間をかけて熟考して計画した田舎暮らしを実現している訳で、ある意味では成功者ともいえます。他方、この春に定年退職した同期の中には、定年後も経済的な理由もあって、職探しをしていた者もいて、今現在仕事が見つかったかどうかは分かりませんが、ある場所を引退した後も、外の場所で現役で活動する生き方を選択する人もいる訳です。つまり、定年後は宮城に住む同期のように完全に隠居する人(とは言っても隣近所等の社会的お付き合いはありますが)、あるいは、新しい職場で現役を続ける、続けざるを得ない人(世間との強固な関係を重視する、あるいは、経済的に働くことがマストである人等、様々)、そして、その中間的な生き方(私のように、ご要望があればするし、なければしない自然体的生活者)の概ね3つの生き方がある訳です。

 ところで、よく言われることでもありますが、日本人は、同じ場所で長く働くことを評価する、一所で懸命であることに価値を置く労働観がありますが、イギリス人は、人のあり方を仕事だけに限定せず、複数のペルソナ(仮面)を持つ、多重的人格者として見る傾向があり、趣味・余暇を仕事と同じくらいに大切にしている国民のようで、そこには、アマチュアリズムの伝統というものがあると言われます。
 日本のアマチュアリズムとは違い、英国では、アマチュアであることをむしろ評価する面もあり、そのレベルも専門職であるプロをも凌ぐほどのものがあります。チャーチルは政治家でありながらも、文学、そして絵画においても英国を代表するほどの人でし、フランスはご案内のように、アンドレ・マルローしかり、ポール・クローデルもそうで、優れた実務者には、実務以外の才能、特に文才的なものがあることが当然視されている文化があります。ミッテランもそうですし、ジャック・アタリもそうです。丸谷才一さんによれば、アマチュアの代表格は名探偵、シャーロック・ホームズのようですが、日本でのアマチュアの代表格、にわかには思いつきません。
 加藤秀俊さんは「独学のすすめ」で、日本における仕事と趣味の関係を、次のように述べています。
「日本は、縄張り根性のつよい国であり、ひとは「専門」にとじこもることによってのみ安全保障にめぐまれる国なのである。多面的存在としての人間を、日本の文化は排除することが多いのだ。たとえば、お医者さんのなかには、絵をかいたり、俳句をつくったりという趣味人が多く、そのなかには、プロとして立派に名の通ったからも少なくない。しかし、ある絵の上手なお医者さんが、むかし、わたしにいわれたことがある ー 絵があんまりじょうずになりすぎると、道楽ものの医者なんか信用できないっていうんで
患者が減りますからね、目立ってはいけません。」
 そうなんですね。日本では、仕事以外で余計なことをしてはいけないのですね。仕事を神聖視するというか、仕事が生きがいというか、この辺が変わらないと、なかなか本当の働き方改革はできないでしょう。

 で、モンターニュはつぶやくのです。隠居状態の私には、仕事として、やるべきこと、やりたいことは特にないのです(実際は、仕事となる予定の講演のための準備とか、あるいは、ブログに掲載するための作品づくり、新作本のための準備等々、広い意味での仕事はありますが)が、丸谷才一さんの「思考のレッスン」ではありませんが、歯の阿修羅の世界」「妄執の霊ども」「死への道行き」「修羅の世界を越えて」「道化地獄」からなる本ですが、源氏物語、宮沢賢治、太宰治にご関心のある方にとっては、読まな情報は集めて、そして、思考して、そしてそれを手作業で表現するという、習慣は持ち続けたいと思うのです。
 で、問題は、どんな事が私に出来るかということでありますが、毎日つぶやくのもこれはこれで意外に大変なんですね。そこで、先人の知恵を拝借するということに思いが行き、そうだなあと思い至ったのが、梅原猛さんの「地獄の思想」(中公新書)にある言葉です。ちなみに、この「地獄の思想」は、梅原さんの著書の中でも、私的には一番の名著ではないかと思っています。「地獄とはなにか」「苦と欲望の哲学思考」「仏のなかに地獄がある」「地獄と極楽の出会い」「無明の闇に勝つ光」「煩悩の鬼ども」「
阿修羅の世界」「妄執の霊ども」「死への道行き」「修羅の世界を越えて」「道化地獄」からなる本ですが、源氏物語、宮沢賢治、太宰治にご関心のある方にとっては、読まずに天国には行けない、そんな本かと思います。
 梅原さんは、大胆な仮説として、日本の思想に流れるのは3つの原理ではないかと述べ、それは(1)生命の思想、(2)心の思想、(3)地獄の思想であるとして、生命の思想につながる神道と密教、心の思想につながら唯識論を強調し、仏教、特に華厳、密教、そして地獄の思想につながる真言宗と天台宗を挙げています。勿論、仮説でありますし、科学とは違い、実証も反証も難しい訳ですが、少なくとも、日本の過去の文書(文学作品も含めて)からはそういう側面は伺えます。心を知るという意味では、何度か紹介しました鈴木大拙の「禅の思想」もそうですし、西田幾多郎の「善の研究」もそういう心を考える書でもありましょう。
 なお、現存する思想家では、私は山折哲雄さんの本を何冊か読んでおります。「近代日本人の宗教意識」「死の民俗学」(岩波現代文庫)、「日本人の顔」(光文社知恵の森文庫)、「親鸞を読む」「教行信証を読む」(岩波新書)、「老いと孤独の作法」(中公新書ラクレ)、そして「仏教とはなにか」「こころの作法」(中公新書)ですが、最後の「こころの作法」には、日本人の心は、西洋の論理や倫理では説明できないものがあるように思わせるものがありますし、この本も、まだあの世に行く列車が当面来そうもない方には、お奨めの本かと思います。

 梅原さんの仮説にあるこうした3つをこれからも学んで参ろうと思っている(ゴルフに応用ができそうですし)のと同時に、丸谷才一の「思考のレッスン」にもあったのですが、バックボーンbackboneとホーム・グラウンドhome groundを活用しながら、つぶやいたり、またはetudeして行こうと思っているところであります。
 バックボーンとは、背骨ですが、思想・信条などの背景にあり、それを成り立たせる 最近は、言語とは論理的なことを説明する記号であるとか、シンボルであるとか言うことよりも、人の魂を表現する、火の玉のようなものではないかと思う様になっているのですが、これはこれで危ない症候かもしれませんが、言霊というように、私はどうもまた、ホーム・グラウンドとは、スポーツでそのチームが本拠地としている競技場で、場所の形態を隅々まで熟知し、何処にロッカーやトイレがあるかなどもよく知ってる、地の利のある場所を意味します。人は、みなそれぞれにバックボーンを持ち、そしてホーム・グラウンドを持って生きていると思いますが、外交官でもあった私の場合は、長く在勤した国がホーム・グラウンドになるでしょうし、そのホーム・グラウンドで得られた経験、そして知見が私の対外的な意味での評価、メルクマールにもなります。
 私の場合、フランス、カナダ、そしてアフリカ大陸にあるザイール(コンゴ民主共和国)、セネガル、そしてアルジェリアがホーム・グラウンドとなり得ますが、ホーム・グラウンドとは、その人のバックボーンと結びついて初めてホーム・グラウンドになると思うのです。つまり、何かを考える時に、知らずしらずに、無意識的に、参照するものが出てくるところがホーム・グラウンドだと思うのです。そういう意味では、私の認識・思想・信条(つまりは文章であり、語る言葉)と深く関わっている国は、言語的にフランス語と密接不可分な国である、フランスであり、カナダであり、そしてアルジェリアだと思います。勿論、一番のホーム・グラウンドは、私にとっては母語である秋田弁の秋田と、学校で習って身につけた日本語の日本ということになります。そうでありますので、日本のことは元より、フランスのこと、カナダのこと、そしてアルジェリアのことは人一倍、気になる訳です。つまり心が惹かれるのです。
 最近は、言語とは論理的なことを説明する記号であるとか、シンボルであるとか言うことよりも、人の魂を表現する、火の玉のようなものではないかと思う様になっているのですが、これはこれで危ない症候かもしれませんが、言霊というように、私はどうも霊の存在に惹かれるようであります。
今日はこの辺で失礼いたします。

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