モンターニュの折々の言葉 361「二木先生とは」 [令和5年4月9日]

 「日本の兵士は世界一、下士官も優秀だ。しかし、将軍は愚劣で、上にいくほどだめだ。」

ジューコフ・ソ連軍元帥の言葉

 朝、朝刊を開いていたら、本のPR欄に、夏木志朋「二木先生」が掲載されていて、なんだこれは?と。家内もその箇所を見て、「なんかいやらしい感じよね」と。いやらしいかどうかはわかりませんが、2019年のポプラ社の新人賞を受賞している小説のようで、二木先生というのは美術の先生らしい。二木は「ニキ」と読むようなので、一安心。

 同じ漢字でも、読み方が違うと受ける印象が違う。ニキは軽い。フタギは重い。ニキゴルフ、ニキの菓子は音が軽いから受けたかなと。「木」はきであり、ぎでもありますが、鈴木は「き」。三木も「き」。ぎと発音するのは、イタリア人か、フランス人だけかもしれませんが、秋田にある名字の二木の読み方は、二通りあって、東京帝国大学医学部を卒業し、世界的に著名なスピロヘータ発見者で文化勲章受賞者である二木謙三博士(1873-1966)は「ふたき けんぞう」、私の父は、二木賢蔵「ふたぎ けんぞう」。

 二木博士は「ふたき」だとずっと思っていて、ウィキペディアでも「ふたき」。ところが、母校のサイトには、「ふたぎ」となっておりました。 https://akitahs-doso.jp/libra/content.html?id=16

 漢字の読み方はなかなか難しい訳ですが、確か今年の大学入試でも、母校秋田高校から東大理Ⅲに合格した生徒さんがいましたが、二木博士は93歳であの世に逝った長寿の方でした。学者もそうですが、医学関係で活躍している秋田県人が多いのは、要は、忍耐力があるということなんでしょう。秋田の米と酒とがっこ(つけもの)がそのバイタリティーの秘訣かなと。二木博士は玄米食を推奨した方ですし、長生きするなら、白米だけでは駄目なんでしょう。色々とバランスの取れた食事が、バランスの取れた人を造るということなのかなあと。忍耐力といえば、渋谷に銅像として立つハチ公も忍耐力があった犬。今年は、慰霊祭のようなものが先日渋谷で行われたようでありますが、こうした忠犬的で忍耐力のある人が少なくなっているのも令和の時代かなと。

 さて、小島直記さんの「一燈を提げた男たち」を久しぶりに再読していたら、「星の王子さま」にまつわる逸話が出てきました。読んではいたのですが、覚えておりませんでした。サンテグジュペリのフランス語の本「Le Petit Prince」を「星の王子さま」と日本語で訳した最初の人は、内藤濯。最初は、フランス語の英語訳の本があったようですが、その英語訳の本ではなく、原書のフランス語の本から日本語訳にしてもらえませんかと、児童文学者の石井桃子さんが美しいフランス語の本を持参して、お願いしたようです。内藤は、その時に初めてサンテグジュペリの本の存在を知ったようですが、彼が何故、多忙にも関わらず、また、けっして若くもないのに、この本を訳したのかということがポイントになります。  内藤は、サンテグジュペリの「ル・プティ・プランス」を「星の王子さま」に訳していますが、princeは王子(大公という意味もあり)ですから問題はないのですが、petitは小さい、いたいけな、可愛い等の複数の意味を持つ形容詞。外国語に忠実に訳すなら、「可愛い王子様」か「いたいけな小さな王子」という訳になるでしょう。本の書名は内容を暗示するものであってもよい訳ですから、地球や宇宙の話が出てくるので、「星の王子さま」は正しく名訳であります。しかし、この王子はどこの星の王子なのか。地球という星の王子か。それとも宇宙にある全ての星の王子であるのか。そこから、この物語を読み解くこともできるでしょう。

内藤は、内藤と呼び捨てするのは気が引けますが、熊本県出身で、戦前は、東京商科大学(現一橋大学)で教授としてフランス文学を教え、戦後は、昭和女子大で講師を務め、また、歌会始めでは「召人」を務められた方。「召人」というのは、高貴な方の側で使える人という意味とか。で、彼が何故フランス語の原書から訳したかということですが、原書の序文に、献辞としてある「おとなは、だれもはじめは子供だった。しかし、そのことを忘れずにいる大人はいくらもいない」という文に惹かれたから。献辞は、サン=テグジュペリ(1900-1944,Antoine Marie Jean-Baptiste Roger, de Saint-Exupery、リヨンの伯爵の子)の幼友達でもある、あるユダヤ系フランスの友人に向けたものでした。

 内藤は、70歳で「小さな王子さま」を訳した訳ですが、70歳で童心の少年のようなみずみずしい感性を訳者自身が持っていなければ訳すことは出来ないでしょう。翻訳は、特に文学作品は、単に横の文字を縦の文字に変換するだけでは出来ないのです。ですから、外国語が本当に出来るかどうかは、文学作品を読み解くことが出来るかどうかということになります。サン=テグジュペリには、冒険物語のような小説(「夜間飛行」「人間の土地」)がありますが、私は冒険好きでもないし、砂漠だとか、空だとか、無的な空間には興味が沸かない人間なので、それほど感銘は受けませんでしたが、「星の王子さま」は、奥が深い物語だと思っております。

 「肝心なことは目にはみえないんだよL'essentiel est invisible pour les yeux」と王子に諭す狐の言葉は、私の高校生講座の講演の「十八番」でもありました。

 今日のまとめです。そうなんですね。肝心なことは自分の目には見えないんですね。肝心なことが見えるようになるには、何が必要であるかを探すのが人生行路でもあるのでしょう。ゴルフもしかりで、自分のスイングは自分には見えません。見える存在と見えない存在のどちらが多いかは、ご案内のように、見えない存在の方が遥かに多い。内藤濯という人は、94歳で天寿されたようですが、こういう人を知るとですね、能力とか才能は度外視して、じゃあ、私も70歳で、後世に遺るような作品を書くかなと、すけべ根性が出てくるのですが、70歳は古希という節目の時。持田鋼一郎さんという紀行作家の方が「一燈を提げた男たち」の解説として、「憂国のリベラリスト」の文章を書いておりますが、小島直記は、憂国の士であり、文学を一燈とした人であると述べております。

 内藤濯にしても、小島直記にしても、私と何が違うかと申せば、彼らには一燈があったけれども、私には、これという一燈がないということなんでしょう。暗夜の道を右往左往しながら、今日もああでもないこうでもないと、暗中模索なモンターニュでございます。

 なお、これは養老孟司さんがおっしゃっていたのですが、アルファベット26文字で表現される言葉というのは、全て既知の情報でしかないと。最近流行りのAIによるなんとかチャットで文章を作成するソフトというのは、まさに既知情報を組み立てるだけのもの。英語の末路というか、終焉を予感させるのがこのAIソフト。他方、フランス語のアルファベットは、英語よりは多い。つまり未知なるものの可能性が大きいということ。ですから、英文学、米文学も良いけれども、見えないものを見れるようになりたいと思うならフランス語で書かれた、描かれた作品を読まないといけないんじゃないのかなあと。

どうも失礼しました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?