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モンターニュのつぶやき [令和3年4月8日]

[執筆日 : 令和3年4月8日] 

「モンターニュのつぶやきは貴方一人だけのためのつぶやきなんです」

 私は夜には、メールを書いたり、文章を作成することはないのですが、夜に文字を書くと、どこか感情が高ぶって、とんでもないことを書くことが多いという、過去の経験から導かれたもので、文章を書くのは午前中、あるいは午後になっております。今日も、午前中から徒然しているわけですが、ある方からのメールで、昔、高校生講座で披露した話のことが蘇りました。それは、広島県のとある小学校の先生のことで、その先生は、生徒さんたちに、学校で先生のお話を聞くときには、この先生は私だけのために、私一人のために教えてくれている、お話をしてくれていると思うことが大事なんだよ、と述べたことを高校生に披露したことでした。
 浄土真宗の親鸞さんも仏様のことを、阿弥陀仏は親鸞のためだけに存在してくれていると思っていた人であったと承知しております。私は、浄土真宗の信徒という訳ではありませんし、ましてやキリスト教信者ではありませんが、学ぶこともそうですし、宗教というものは、基本的にそういうものだと思います。つまり、私という個と神・仏という超個との一対一の関係であるということです。それが多分、憲法で言うところの、信仰の自由であると。
私の「モンターニュのつぶやき」も、そうした気持ちから皆様に送っているものであります。

 さて、禅にかぎらず、仏教では、人生というのは凡夫にとっては、不幸だらけの大海を生きるようなものであり、その大海を生き抜く力を与えるくれるのが阿弥陀仏であるとか、大日如来であるとか、あるいは、宇宙霊ということになると思います。私という人間は、これまで、一人の人間として、あるいは、妻と子を持つ人間としての最大の苦しみや、辛さというものを多分、経験したことがないのだと思います。つまり、仏性(あるいは神性)を信じる、信じるしか希望が残されていないような、生きることの意味を根底から考え直さなければいけないことに出逢っていないから、宗教に帰依せず、生きていられるのだと思っています。それは、浄土真宗の始祖、親鸞がいう、子との生き別れの宿縁がないからなのかもしれません。あるいは、単に、運が良いだけのこととも言えます。いや、むしろ、仏様、あるいは神様は、杢兵衛は、そんな辛い愛の鞭には耐えられないであろうと思われて、そのような辛い苦しみに出逢わないだけなのかもしれません。
 子を持つ親にとっての最大の苦しみであり、辛さとは子を失うことでありましょう。私にも一人息子がおりますが、出来不出来に関係なく、子供は愛おしいもので、また不憫でもあり、そして親にとっての希望の灯でもあります。子は、親にとっては幸福と不幸の源泉ということです。人生は決して極楽のように、毎日が天気で、楽しいことばかりではありませんし、「渡る世間は鬼ばかり」とも言いますし、そういうことを可愛い子供には経験させたくないと思う反面、娑婆には楽しいこともそれなりにあるし、その楽しいことを経験させてあげたい、喜びを自分たちも共有したいとも思うわけです。
 親にとってそのような一番の愛の対象である子が親よりも早く天国に召されるというのは、理不尽であり、愛の鞭としてはあまりに酷いことであると思います。その試練に耐えなければいけないのは、それが神の愛の鞭である、という言葉だけではなかなか納得しがたいものがあります。しかし、親から見た子の喪失を、味方を変えて、神や仏から見ると、その親はそれ故に、神や仏を更に信じることを使命づけけらた人間という風にも考えられないこともありません。つまり、子を喪った親は、神や仏によって選ばれた人間であったということです。ユダヤ人はユダヤ教をそのように理解して、今を生きている民族と言われます。

 実は、昨日、お子さんを喪失した方からのメールがありまして、こういう時は、論理的に言葉で気持ちを表現するのは、難しいのですが、たまたまにご案内しようと思っていた、西田幾多郎(1870-1945)の事に触れた文章がありましたので、御紹介します。
 「禅とはなにか」の著者の鎌田茂雄(1927-2001)さんは、東大教授、国際仏教大学院大学教授などを勤められた先生で、西田幾多郎を私淑していた人でした。西田は、ご案内のように、子供をなくしておりましたが、同僚の藤岡博士が子供をなくされたのに同情し、西田自身が子どもをなくされた時の経験を藤岡博士宛に手紙にして伝えたことがあったようです。鎌田先生は後に、座禅の修行時期に、その手紙を読んだことがあるそうで、その手紙には、「人には絶対的価値があるということが、子どもをなくした場合に最も痛切に感ぜられ、そして、人間の仕事は人情ということを離れて外に目的があるのではない。学問も事業も究極の目的は人情のためにするのだ」という意味のことが書かれていたそうです。
 体験したことのないことを理解するのはとても難しい。経験したことがないことを知識とすることはできない。子をなくしたことのない人間に、子をなくした人の悲しみは理解できない、できるのは唯一、神であり、仏であると思うのです。が、しかし、西田のように、あるいは、鈴木大拙のように、不条理であったり、不公平であったり、矛盾であったり、そして悲しみから学問を志した人は、すでに菩薩であり、神や仏の言わば代理者的存在者ではなかったのかと思うのです。それ故に、彼等は、一人一人の存在の意義に価値の違いはないとして、親族への愛と、隣人への愛に差のない、聖人だった気がします。
 大拙は、西田が75歳で腎疾患(尿毒症)亡くなった時、「到頭西田死んだ」と号泣したようですが、心友であった西田を失ってからも、彼はその後21年生きる訳です。ドイツの哲学者シュプランゲルが「いま世界に聖者が二人いる。アルベルト・シュバイツァーとダイセツ・スズキだ」と言ったようですが、大拙の最後の言葉は秘書の人が「Would you like something, Sensei?」の問いに対して「No, nothing. Thank you」であったと。 人生、最後は「有難う」で終わりたいものです。

 もとより、誰でもそうした聖人になれるわけではありませんが、西田が言う、「学問も事業も究極の目的は人情のためにするのだ」という言葉を杢兵衛的に言えば、学問も事業も利他であって、それは無償の愛であり、無償的な行為になります。禅を理解するには、座禅が不可欠であると申しますが、私は足(膝)に問題があって容易ではないのですが、座禅については、井筒俊彦さんが「共時的構造化」という視点で書かれた「意識と構造」(岩波文庫)でも書いております。座禅をすると、何が意識で、何が無意識であるかが判然としなくなる瞑想的状況に入るといいます。そして、意識下の無意識部分(複層的構造)にある、万人に共通する太古の記憶のようなものがどんどん出てくるようです。そうした経験をするのは、禅の理解だけには留まらないでしょう。たまたま知人の陶芸家がこの4月から5月にかけて、京都の名刹で陶芸展を開催するようですが、枯山水の庭を眺めながら、瞑想して「悠久の時」、つまり「永遠の今」を感ずるのも、コロナ禍ではありますが、私にはなんとも贅沢な、至福の時間ではないかと思う次第であります。
二木

 
(待てば海路の日和あり、ではありませんが、地方の大学で、ゲスト・スピーカーとして講演する話が参っておりまして、その準備もしないといけませんし、更に新作を執筆中でもあり、年金生活者ではありますが、現役時代よりも、パソコンに向かう時間は多い昨今です。)


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