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Etude (28)「西田幾多郎-無私の思想」

[執筆日 : 令和3年4月6日] 

「一たび禁断の果を食った人間には、かかる苦悩のあるにも已むを得ぬことであろう」
                      西田幾多郎 「善の研究」 

 鈴木大拙の禅の次は、西田幾多郎の善かという訳でもないのですが、役所を定年退職した後は、幾つかの妄想を抱いていて、その一つが、大学で哲学を学ぼうということがありました。ただ、実社会で長く働き、そして諸外国を眺めてきた自分にとっての哲学は、かなり素朴なことへの解答を哲学が導き出してくれるかもしれないということで、アカデミックな学問的哲学とは少し違っていたようです。素朴なこととは、例えば、人生とは何?、人生に意義はあるの?、人生に見られる様々な不条理は何故起きるのか、そしてそれに対する処方箋はあるの?とか、そういう疑問というか、問題提起にどう答えてくれるかを知りたかったということであります。ソクラテスのように、世界の理解のための本当の知を知り、そしてその知を愛するというほどのものではなかったのです。
 哲学は古代ギリシャの頃は、学問一般として考えられ、中世では神学となり、近代以降は、科学の発達によって、次第に分化し、認識論、論理学、存在論、倫理学、美学等になって、現在は認識論、倫理学、美学が大きな柱のようですが、哲学の科学化傾向もあるようで、果たして私が抱いた素朴な疑問にどれだけ答えてくれるのか、そもそも、哲学の扱う対象というものは、科学と同じというか、解答のあることを、実証、あるいは、反証することが可能であることだけしかないのであれば、面白くない、そう面白くないように思うのです。哲学に限らず、科学は特にそうでしょうが、学問は普遍性を追求するものではありますが、宗教が哲学から除外されて以来、個々人の悩みを解決してくれない現代の哲学の面白みを、まだよく味わえてはいない、小僧のモンターニュであります。

 西田幾多郎に関しては、それほど多くの本を読んではいませんが、佐伯啓思さんの「西田幾多郎 無私の思想と日本人」(新潮新書)、藤田正勝さんの「西田幾多郎 生きることと哲学」、「哲学のヒント」(岩波新書)、田中祐さん編の「西田幾多郎講演集」(岩波文庫)は読んでおります。特に私が興味を惹かれたのは、佐伯さんがいう、「日本では西洋のような体系的な哲学や思想が生まれなかった一つの理由は、日本では「ものを考えること」が、世界の認識に向かうのではなく、多くの場合、人が生きる上でのある境地を目指すものであったからです」という下りです。そうなんですね、日本人はある「境地」に至りたい、「悟り」を得たいがために哲学を学ぶということに。それから、藤田さんの「哲学のヒント」は、西田以外の思想家、九鬼周造、和辻哲郎、井筒俊彦、三木清、唐木順三、或いは脳科学者の時実利彦、そしてパスカル、ベルクソンも引用されている、「哲学の旅」的な本で、一番面白いかもしれません。

 さて、梅原猛さんは「百人一語」(新潮文庫)で、西田幾多郎の「善の研究」にある言葉を掲出しながら、「善の研究」を買った人の10分の1くらいしか実際は読んでいないであろうし、その読んだ人の10分の1くらいしか理解できなかったであろうと思うと述べながら、西田は一般人には理解し難い難解至極な本を書いているが、彼は一体全体何を求めていたのだろうかと自問する訳です。
 梅原猛さんは、「先生は何を苦しんでそんなに思索しているのですか」と侍医に尋ねられた西田は、「自分は一切のものを包むフロシキのようなものを考えている」と答えたエピソードを紹介しています。風呂敷というのは、如何にも日本的で、何でも入れることが出来る、魔法の収納袋です。しかし、そんな万能の思想(風呂敷)が本当にあるのか、そして、その風呂敷を理解するのは、西田がこの世にいない今、並大抵のことではないと思っています。
 まあ、吾々は書物を通してしか先人のことは理解できない宿命を持っている訳ですが、その書物にあることを、一つ一つ押さえていくしかありません。ところで、禁断の果とは何でしょうね。旧約聖書にある神から食べてはいけないとされた知恵の木の実でしょうが、欲望(煩悩)であったかもしれません。人間が知恵を持つというのは、結果としては、神から距離を置くことになり、神に依存しない自律的な生き方を見つけないといけないことになり、それが苦しみを伴う哲学的思索になるということなのでしょう。
 
 西田の哲学を学ぶというのは、論理(科学的な或いは数学的な)をベースとして、認識的なこと、そして、倫理的なことの2つの側面、つまり、絶対者のいないロゴス的世界の理解と、絶対者の倫理を考えながら、最終的に人間はそうした知(意味のある知ということでしょうが)をどのように現実の世界で、自分の人生も含めて、活かすか、ということを学ぶことだと、私は理解しております。門前の小僧習わぬ経を読むではありませんが、小僧にとって、一番有り難いのは、講話的な講演なんだと思っています(というのは、講演は声を媒介として、脳を刺激し、情も喚起しやすいので)が、幸いにして、初代哲学者的なソクラテスが市井の人と対話したかのように、西田が聴衆を前に語った講演記録(口語体)、田中祐編「西田幾多郎講演集」があります。
 この本には、京都大学関係者向けの講演と、外部の人に対しての講演が収録されております。「Coincidentia oppositorumと愛」「エックハルトの神秘説と一燈園生活」「生と実在の論理」「実在の根底としての人格概念」「現実の世界の論理的構造」「歴史的身体」「宗教の光における人間」でありますが、皆字面だけでももう眠くなってしまうような内容を想起させます。でも、当時の日本人は知識欲というか、生きることに真剣に向き合っていたんですねえ。西田も凄いですが、こんな難しい講演を聴いていた人々がいたことに、感嘆してしまいます。今の日本人は、なんなんでしょうねえ、本当に。
 で、参考までに、田中祐の「解説」にある最初の講演記録である1919年10月13日、真宗大谷大学の開学記念日の講演についての記述を簡単に御紹介します。真宗大谷大学の初代学長であった清沢満之(1863-1903)という人は、仏教界では有名な方ではありますが、エピクテートスの「自ら変えることのできない運命を諦観する忍耐」と、親鸞の「絶対者である如来に生かされる信心」を学んだ人で、ドクマ(教学)よりも普遍的な視座にたった「宗教哲学」を西田よりも早い時期に講じていたようで、清沢の思想は同時代の人にはなかなか理解されなかったけれども、門下の暁烏敏等によって、引き継がれます。
 西田は、当時、東北大学の田辺元と書簡のやりとりをしていたようですが、西田は、真の哲学は、自分自身が生きる力ともならなければいけないとし、スピノザやマルクス・アウレリウスの「永遠を観照することによって自己の運命を受容する倫理」を学ぶためにも、聖書を読むことを勧めています。しかしながら、西田は、「真に心の落付きを与えてくれるものは禅の外にはない」と述べており、浄土真宗の清沢満之との違いが看取されます。西田は、キリスト教の霊性的伝統を重視した思想家、特にエックハルトを重要視していますが、西田の宗教と哲学からなる大きな風呂敷(の一端)は、後に西田門下(上田閑照等)によって受け継がれ、東西の霊性交流や宗教間対話につながっていくのです。
 なお、収録されている講演記録の中では、私的には、最後の「宗教の光における人間」が一番分かりやすかったし、また「現実の世界の論理構造」は、時間(直線的で不可逆的なもの)と空間(円環的で可逆的なもの)という真逆の関係が、今だけ一致することを可能とする「媒介者」の存在(西田は「即」と呼んでいます)を考える上で大変興味深いものがありました。
 
 ちなみに、梅原猛さんは、京都大学の学生時代に、西田を越えるような西田とは全く異なる独創的哲学を作るべきだと、豪語したものの、「西田の哲学の根源に禅の体験があり、そこから彼はデカルトをはじめとする近代西欧の哲学を批判した訳であるが、私は幸いにアイヌの思想によって「循環」という宇宙の根本原理を知った。その原理を中心に、21世紀に生きる人類の哲学を立てたいと思うが、もうそう時間が残されていないのである」と述べています。
 「百人一語」(初版1993年)の解説「日本の地下水脈に汲む」は、昨年逝去された芳賀徹さんが書かれているのですが、芳賀さんは、「たしかに梅原氏には「いいもの」を嗅ぎあてる勘と、それへの好奇心と集中力と一種の責任感とが、人なみはずれて強く働いているらしかった。「端倪すべからず」とは、普通上位の者が下位の者について使う言葉らしいとはわかっていても、梅原氏の異能ぶりについては、やはりこの言葉をつぶやかずにはいられない」と述べ、「百人一語」の「一語」の選び方には、梅原さんならではの嗅覚による貴重な地下水の発見であり、「これらの言葉に触れて、私たちも私たちの身のなかに実は伝わっているはずのあるの清冽な水脈を汲んで、この日常をもう少し深く濃いものにしてゆきたいと願わずにはいられない」と結んでおります。

 最後に、先般御紹介した「四季の名言」の著者、坪内稔典さんは、誕生日プレゼントに「善の研究」をもらい、高校生の頃に一度読んだようですが、ほとんどわからなかったと。その後自分で改めて本を購入して読み始めたものの、結局挫折したようですが、「純粋経験」という言葉だけが記憶に残ったとか。読み続けられないのは、要するにおもしろいくなかったということではありますが、それでも、手放せない本のようで、「純粋経験」について、「西田先生が純粋経験は震撼とひとめぼれすることであると言ってくれたらわかったのに」と述べ、「善の研究」の一節「吾々が物を知るということは、自己が物と一致するというにすぎない。花を見た時は即ち自己が花になっているのである」を掲出しています。
 梅原猛さんが掲出した言葉と、坪内さんが掲出した言葉、この2つの言葉は、確かに、震撼というよりも、一目惚れを語っているかのようでもあり、哲学を知らない子供が読んだら、これは昔の恋愛話なの?と、思うかもしれませんね。西田の求めた風呂敷の事はわかりませんが、哲学と禅、まあ、人間が考える思想というのは、案外、人間にとって一番切実な課題である「愛」や「恋」についての研究に繫がるのかもしれませんね。それに、西田は人情を重視していましたし。
 思想としての西田幾多郎に終わりはないでしょうが、とりあえず、この辺で。



 話は少しここから、脇道に入りますが、東日本大震災で被害にあった浪江町の場所を探している時、ひょいっと何気なく、日本にある都道府県名の由来の記述を眺めていて気がついたのですが、藩政時代には、今の都道府県の数よりは多くの藩があって、その名前が地名として現存している場合もあるかもしれませんが、アイヌ語に起源を持つ県名は、なんと秋田県だけなんですね。北海道は「蝦夷」が由来となっていますが、秋田県のアキタは、「水の湧いたじめじめした土地を意味する「アイタ」が語源ということです。秋田県は面積では全国で6番目(北海道、岩手、福島、長野、新潟についで、愛知県の2倍以上)で、人口は下から数えた方が早い県。かつては八郎潟もあり、そして田沢湖、十和田湖もありますので、水は豊富な県で、それもあって、美味しい日本酒が出来る訳ですが、アイヌ民族と秋田県人の繋がりは深いものがあったのでしょう。生まれ故郷の地名三内(サンナイ)にはアイヌ語のナイがついていたことの理由が少し分かった次第です。なお、北米のカナダの「カナダ」という名称は、先住民語で彼方を意味する言葉「カナタ」が語源のようですが、日本の先住民族のアイヌ語から生まれた秋田という名称とカナダという名称に、共時性のようなものを感じます。

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