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『ポール・マッカートニー』について。

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ディスクユニオンのサイト上で、昨年から1年かけて連載してきた記事。 全50回、上記のリンクでお読みいただけます。

「20世紀最高の作曲家」と呼称されるポール・マッカートニー。彼の特異な才能について、そして、その才能が世界的に認知されている状況について、改めて自分なりに考えてみたいと続けた連載。ポール・マッカートニーには一体、どんな音楽的才能があるのか?

「素晴らしい音楽の才能が、君にはある」「君の特別な才能を伸ばすために必要な音楽の訓練法がある。それを実践しなさい、練習しなさい」「アカデミックな場所で音楽史由来の知識を学びなさい」「コンテストで優勝したので歌手になりなさい」。そのような権威的な後押しや自覚、そして期待をメンバー誰一人もされることもなく『ザ・ビートルズ』は1962年、英国でレコード・デビューをした。

ポールが音楽家として稀有な存在である理由、その成り立ちこそがポールとザ・ビートルズが世界に与えた最も大きなインパクトだったのではないか?その視点でテキストを書き続けてきた。彼らは音楽的能力を事前に賞賛されたり認知されたこともなければ、確かな音楽家に師事をして技術や知識を得たわけでもない、地元リヴァプールで人気のバンドであっただけである。      ポール・マッカートニーとジョン・レノンの二人はただ「曲作りを好きで続けていた(だけ)」なのである。つまりザ・ビートルズとしてデビューしたことがすべての始まりであり、そのデビューも自らの硬い意思でチャンスをもぎ取った結果ではない。突然、彼らの目前に舞い降りた男性、天使のような一人の人物によって(彼もまたマネージメントを専門にしていたわけではない)、デモテープ(その出来も特別なものではない)がレコード会社に持ち込まれ、結果、EMIレコードのレーベルから期待されたわけでもない状態でデビューできた(だけ)なのである。

ザ・ビートルズ、そしてそこを出発点にしたポール・マッカートニーの(才能)を考えることは、その他者性によって見出された状況をまずは出発点として発想することではないか。そして、ポールにとって絶対的な他者であり続けている『ジョン・レノン』の存在。                ポールにとってのジョン・レノンはオブセッション(無意識と抑圧主体)そのものなのではないか。膨大な才能と成功を手にしたポール(そしてビートルズ全員)が解散後、ソロになった以後も、成功者ゆえの転落や死にいたる破綻から逃走できた理由(米国ミュージシャンの短命ぶりとは正反対である)、それはまさに永遠の他者であるジョン・レノンをそれぞれに抱えていたからなのではないか。ビートルズのメンバーは(それぞれに紆余曲折あれど)独自の他者性を抱えていたからこそ、自身の能力を自我に直結させることもなく、実人生と音楽的達成の関係性を結果として相対化出来たのではないか。

当然に、ミュージシャン、ポール・マッカートニーに備わっている優秀な音楽的能力を証明することは可能である。連載でもそれについては詳細に書いてきた。だが、ポールの特異さとは(その才能が常に他者性によって担保されている)ことにあるのだ。少なくともジョンと出会っていなかったらポールの才能はより進化することもなく、デビューのチャンスもおそらくなかった。アカデミックな背景によって見出された才能ではない特異さ、ジョンをはじめとした重要な他者との出会い、偶然とも言える状況でデビューしてみたら売れてしまった。その流れの先でポールの才能は開花したのである。

ポールもジョンも楽譜の読み書きが苦手である。自分たちが手にした音楽手法だけを信じ、結果を出してきた自作自演の音楽家である。だからこそ、その技術には限界がある。緻密なオーケストレーションによって作り出される音楽手法の追求は彼らには到達不可能な領域なのだ。ポール流は万能ではない。「自分にとって必要な音楽的能力だけを最大限引き出している」にすぎないのである。一般化された音楽知識によって測られることは、彼らの意識としては矛盾している作業なのである。なぜなら、与えられた理論や知識によって曲作りを理解していないからだ。好きで作っていた楽曲に世界的な需要があったから、結果としてその自己流の方法論を続けていただけなのである。そして、その好きで作っただけの音楽には世界中を巻き込み、以後の音楽界を丸ごと変革するような途方もない魅力が詰まっていたのだ。偶然が奇跡を呼んでしまった出来事だったのである。

ポール流、それを考え続けてきた連載。辿りついたポール・マッカートニーとザ・ビートルズの特異さとは「他者性の可能性そのものである」ということではないか。実感として今は、そう思っている。その他者には世界中のファンも当然含まれている。聴かれ続けることによって彼らの価値は規定されているのである。

今後も引き続き、機会をみて連載の続きを書いてみたいと思います。

(題イラストは友人であった、故早川義春氏に書いて頂いたものを使っています。https://hayakar.hatenadiary.org/)


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