『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (124) 小日向水道町から赤坂表町へ
中先生を我孫子に誘ったのは志賀直哉であろうとひとまず考えてみましたが、確かな裏付けがあるわけではありません。我孫子の中先生は志賀直哉と親しく交友し、二人が我孫子を離れてからもお付き合いが続きました。それならはじめはどこで知り合ったのだろうというもうひとつの疑問が生れます。志賀は明治16年2月20日の生れですから中先生より2歳の年長です。学習院高等科から東京帝大文科大学に進んだのは明治39年で、中先生の1年あとになります。大学では漱石先生の講義には出席しましたが、他の講義にはほとんど出なかったようで、明治43年に中退しています。明治43年の志賀は満27歳。それまでは大学に在籍してさえいれば徴兵検査を免れましたが、27歳になった以上、もう大学にいても仕方がなく、中退して徴兵検査に応じたところ、甲種合格となり千葉県市川市鴻之台の砲兵第16連隊入営することになりましたが、わずか一週間ほどで除隊になりました。耳の病気のためということです。こんなふうですので同時期に文科大学に在籍していたとはいうものの二人が出会った形跡は見られません。
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中勘助先生は『銀の匙』の作者として知られる詩人です。「銀の匙」に描かれた幼少時から昭和17年にいたるまでの生涯を克明に描きます。
●中勘助先生の評伝に寄せる 『銀の匙』で知られる中勘助先生の人生と文学は数学における岡潔先生の姿ととてもよく似ています。評伝の執筆が望まれ…
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