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スマホフリーの高校から報告

 ユネスコが学校でのスマホ禁止を呼びかけている。
 スマホに通知が届くだけで生徒は気が散り、その後学習に集中し直すのに最大20分かかるとする研究もあるそうだ。ベルギー、スペイン、英国で、学校にスマートフォンの持ち込みをさせないようにしたところ、学習パフォーマンスが向上したという調査結果も示されている。

 勤務校はスマホ完全フリーという珍しい体制をとっている。持ち込みもOKだし、授業で使うこともあるし、校内での動画撮影やアップロードにも特にガイドラインはない。

 GIGAスクール構想で一人一台にタブレットが支給される世代が入学してくるとなった時、さすがに議論にはなった。勤務校は従来からスマホフリーで、むしろ連絡ツールや授業において積極的に活用していたのだが、これを機にタブレットを導入すべきか否かというものだ。
 結果としては、スマホの普及が避けられない世の中で、禁止するよりもむしろ使いこなす方法を学ぶ方が大事ではないか、という理想論でいくことになる。しかし、具体的にどうするかは議論されず、とにかく今まで通り、タブレットは導入せず、スマホを積極的に活用するということになった。要は現状維持だ。

 経営サイドの意見としては、ライバル校がどこもタブレット導入していて、導入していないことが競争不利に働くならタブレットを導入すべし。そうでないなら、教材費の値上がりによって入学希望者が減る可能性があるので、様子見して従来通りスマホを活用すべし。という至極現実的なものであった。

 つまるところ、どちらサイドにも「タブレットを導入しなければ!」という積極的な動機付けはなかったので、従来通りの体制でいくことになったというところだ。

 あれから数年。壮大な社会実験もそろそろ結果が出たと言っていいと思う。結論としては大失敗であった。

 まずは悪質なトラブルが増えた。禁止したらしたで、「持ち物チェック」とか「没収」とかいう従来にはなかった指導が増えてしまうのだが、フリーはフリーで別の指導が増える。

 授業風景を勝手に撮影してアップロードする。クラスメイトが叱られている場面を撮影してシェアする。体育の授業で転んだ姿をこっそり撮影してバラまく。男子生徒がトイレで大をしている様子を上から撮影する。
 それだけでも大問題だが、それをきっかけに学校に来れなくなったり、保護者も交えての喧嘩になったりと派生していく。

 英語科などはむしろ積極的にアプリを導入し、授業中に生徒たちはスマホに向けて音声を吹き込んだりしている。音が重ならないように自由に教室移動し、中には廊下で取り組んでいる者もいる。
 真面目にやっていても、傍目には遊んでいるようにしか見えない。便乗して遊んでいても区別がつかないので注意しづらい。ホンの数年前でもありえないような風景だが、もはや当たり前になっている。

 他教科でも「調べ学習」のために授業内で使用したりするので、もはや彼らの認識の中に「授業中にスマホは使ってはならないもの」という感覚すらない。だから、スマホを使わない授業でも無意識に画面を開いてしまう生徒が数多くいる。コソコソではなく目の前で堂々とスマホを開く姿は逆に根深さを感じる。

 当初は関係ない場面で使用した場合は没収して担任に渡し、放課後に担任から返却、みたいなシステムがあったのだが、1時間目に没収されると、それ以降の授業で使用する場合に支障があるため、なんとなくそのシステムは形骸化していった。

 友達に黒板を撮影してもらい、休んでいた時の板書をノートに写したりすることも日常的なので、スマホ使用=注意とはいかない。勉強していたのに怒られた、というように拗ねてしまうケースやトラブルになるケースもある。だから、段々と注意する教師自体が少なくなり、今は文字通りフリーな状態だ。

 結果として家でもスマホ、学校でも授業でもスマホという依存状態が当たり前になっている。学習アプリなどを有効に使っているならまだしも、その用途はほとんどがLINE、インスタ、TIKTOK、そして、ゲームだ。

 これはもはや生徒だけの問題にとどまらない。休憩室で同僚と話していると、アプリゲームに20万課金したという笑い話になったのだが、その教員が恐ろしく示唆に富む話をしてくれた。

 昔は家庭用ゲーム機で遊んでいたが、スマホゲームに慣れてしまうと、そもそも本体を出して、ソフトを入れて、コントローラーを準備してという作業自体が億劫になってくるという。
 やがて、その作業の煩雑さを避けるために、家庭用ゲーム機自体疎遠となり、アプリゲーム以外は全くやらなくなったらしい。そして、今では同じアプリゲームでも起動時間やロード時間が長いものはその時点で億劫になるので、どのゲームで遊ぶかは起動の速さで選んでいるそうだ。

 ようするに「何もない時間」に耐える能力が大人も子どもも著しく低下しているのだろう。

 幼少期からスマホを与えられ、そのように育てられた子どもたちは人生において「深くじっくり考える」機会はあるのだろうか。

 私の幼少期はゲームもビデオも珍しかったので、授業で映画や動画を見るとなるとテンションが上がったものだ。「やったー!今日はビデオだ!」という具合に。

 今は動画など珍しくともなんともないし、内容もTIKTOKのような瞬間芸が主流なので、授業中にビデオ見せてもほとんどが空振りに終わる。「映像の世紀」なんかを見せた日には2~3分もすればほとんどがお休みモードだ。

 いいかげん「そういう世代の子どもたち」にいかにモノを教えるかを真剣に考えなければならない。少なくとも従来のやり方では通用しない。

 一方で、本当に今のままでいいのかという疑念もある。行動心理学的に人は欲求に対して手間が多いほど行動に移さなくなるが、スマホは先程の同僚の話からもわかるように、とにかく欲求から行動までのハードルが少ない。ゆえに気が付けばスマホをいじってしまうというのは大人でも防ぐことは難しい。

 人類が他の生物に比べて勝っているのはとにかく知能だ。身体的には人類を遥かに凌駕する生き物は数多くいるが、人類は知恵を駆使し、その結果、もっとも繁栄する生物となった。
 
 もしスマホが「じっくり深く考える」機会を奪う道具だとしたら、事態は思っているより深刻だ。人類から知恵を奪うような道具は繁栄にとってマイナスである。

 これまでも、文字や印刷や映画やテレビや漫画やアニメやゲームやインターネットやらが発明されるたびに、そうした批判にさらされてきた。しかし、結局はそれらをいかに使いこなすかが大事だという結論に落ち着いてここまできたと言える。

 しかし、スマホや昨今の生成AIを本当にそうしたものと同列に語っていいものなのだろうか。スマホフリーの高校で働き、そうした中で育った生徒たちを見ていると杞憂ではないように思えてくる。

 その意味で私はユネスコの呼びかけに大賛成である。スマホが便利で快楽を高めるツールなのは否定しない。しかし、その性質はむしろ酒やタバコに近く、使いこなせる年齢になるまでは害の方が大きい。
 そして、子どもはおろか、大人であっても使いこなすのは難しい。これほど手軽に快楽を得られるツールはかつてなく、中毒性・依存性は従来の発明とは比較にならない。

 今更難しいとは思うが、「スマホの18歳未満の使用を法的に規制する」という政治家が現れたら、私は全力で応援したい。

 なお、勤務校においてはもはや「スマホがフリーなこと」が売りにすらなってきている。オープンスクールなどでは中学生が「この学校ってスマホフリーなんだって。やったー。」みたいな会話も聞こえてくる。

 この状況でいきなり方針転換したら大暴動が起こるだろう。授業においても没収する際の抵抗は時に常軌を逸したものがある。それくらい依存性が強いのだ。没収して鞄に入れたものを勝手に抜き取っていった生徒すらいる。

 特に3年生は2年間フリーで来ているので、まず素直には従わないだろう。仮に配慮して2,3年生はOK、オープンスクールで周知して1年生からダメとしても、1年生は不平不満を言うだろう。

 つまり、もはやアメリカが銃社会を止めれないような状況になっている。これを打破するには豊臣秀吉の「刀狩」のような大ナタが必要になってくるが、残念ながら勤務校に秀吉のような人はいない。

 このまま行きつくところまで行くしかないというのが実情である。現状維持という軽い気持ちで決断したことが、取り返しのつかない状況を生んでしまった。改めて大企業のトップの方々の凄さを痛感する次第である。

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